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独り言: 『まどマギ』が語る情報と社会、それと日本について

 ずっと以前からの持論ですが、私は、人や物事の価値は、価値観が決める、と思っています。
 「価値」というのは、誰もが認める客観性のあるものではない。人それぞれが自分の物差しを持っていて、それで人それぞれが自分にとっての価値を決める。
 江戸時代の検地で、短い間竿を使って測量し、田畑の面積を水増しし、割り当てる年貢を増やした、なんてことがあったそうです。「価値」などという、人のものの見方によって決まるものは、まさにそういう性質のものなんではないかと。

 最近、アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』にハマっている私ですが、実は、上記のようなことを考えながら見ているのです。
 特に、「『魔法少女まどか☆マギカ』 虚淵玄の言」に示したように、脚本家本人が「価値観」というものをテーマの一つとしていると述べていますし。
 このアニメ作品自体にしても、第3話で主要人物の一人が惨殺されたら、そんなのを見る奴は狂ってるとか言われる始末。でも、戦士戦場戦死するのを描いたものを見るのがおかしいのなら、戦争映画を見る人は、チャンバラのある時代劇を見る人は、民間人が惨殺されるイエスのエピソードをありがたがる人は、全部狂っているのか?
 これほどに、価値観というのは、人々の間に齟齬を生みます。

 尤も、私はキリスト教自体人類最凶の害毒思想であると考えていますが。教えの内容ではなく、その在り方が。異教徒に対する不寛容、過干渉、排他性とか。
 私は、不寛容に対しては徹底して不寛容になるので(笑)。

 さて、『まどか☆マギカ』の話に戻りますが、私はこの作品を高く評価しています。映像の描写力、音楽の奥深さ、役者の演技。まあ、手放しで満点をあげたい、というわけでもありませんが、充分に満足しています。
 そして、最も気になっているのが、脚本です。
 その脚本には、様々な含蓄があります。知識が詰め込まれている、という意味ではなく、何かを呈示し、考えさせる、という意味で。だから多分、これを(真面目に)見ている人達の間では、様々な評価がなされているでしょう。

 ごく常識的な台詞を引っ張ってきてみると、こういうのがあったりします。
 まず、第3話のまどかとパパの会話から。

「なんでママはあんなに仕事が好きなのかな。昔からあの会社で働くことが夢だった、なんてないよね」
「んー、ママは仕事が好きなんじゃなくて、頑張るのが好きなのさ」
「え」
「嫌なことも辛いことも一杯あるだろうけど、それを乗り越えたときの満足感が、ママにとっては最高の宝物なのさ」
「……」
「そりゃ、会社勤めが夢だったわけじゃないだろうけどさ、それでもママは自分の理想の生き方を通してる。そんな風にして叶える夢もあるんだよ」

 中々興味深い。こういうのが、今回私がテーマにしている「価値観」について考えさせる意見です。
 次に、第6話から、今度はまどかとママの会話から。

「友達がね。……大変なの。やってることも言ってることも、多分間違ってなくて、なのに、正しいことを頑張ろうとすればするほど、どんどん酷いことになっていくの」
「よくあることさ」
「え?」
「悔しいけどね、正しいことだけ積み上げてけばハッピーエンドが手に入るってわけじゃない。むしろみんながみんな、自分の正しさを信じ込んで意固地になるほどに、幸せって遠ざかってくもんだよ」

「……たとえ綺麗じゃない方法だとしても、解決したいかい?」
「うん」
「なら間違えればいいさ」
「え?」
「正しすぎるその子の分まで、誰かが間違えてあげればいい」

「まーどか、あんたはいい子に育った。嘘も吐かないし、悪いこともしない。いつだって正しくあろうとして頑張ってる。子供としてはもう合格だ。……だからさ、大人になる前に、今度は間違え方もちゃんと勉強しときな?」
「勉強……なの?」
「若いうちは怪我の治りもはやい。今のうちに上手な転び方を憶えといたら後々きっと役に立つよ。大人になっちゃうとね、どんどん間違うのが難しくなっちゃうんだ。背負ったものが増えるほど、ヘタを打てなくなってく」

 最後のは、もしかしてもしかすると、今の日本の在り方に対する提言なのかも知れません。18歳になるまで隔離しておいて、18歳になったらもう大人だろう、みたいな扱いをするのはおかしい、徐々に育てていくべきだ、と。
 まあ実際のところ、虚淵がそういうことをこんなところで表明するとは思えないと言うか、イメージに合わないので、私が勝手な解釈しているだけなのでしょう。

 また、ちょっと普通の社会から外れてくる台詞になると、こういうのがあります。
 第5話より、杏子の台詞。魔法は人助けのために使う、みんなのための力だ、そう考えているさやかに対し、杏子が言いました。いくかの台詞をまとめます。

「だからさ、4, 5人ばっか食って魔女になるまで待てっての」
「あんた、卵産む前の鶏絞めてどうすんのさ」
「弱い人間を魔女が食う。その魔女をあたし達が食う。これが当たり前のルールでしょ? そういう強さの順番なんだから」
「まさかとは思うけど、やれ人助けだの正義だの、その手のおちゃらけた冗談かますために、あいつと契約したわけじゃないよねぇ、あんた」

 杏子は、食物連鎖とまで言っています。
 「価値観」の相違が、どれだけの行動の違いに表れるか。これは、本作が「魔法少女」を主人公とする話であるという前提があるのに、肝心の「魔法少女」が何なのか、登場する人物の間でさえ共通の見解がないことを示しました。
 ちなみに杏子は、好きな男の子のために魔法少女になったさやかに対して、第6話でこんなことを言っていました。

「惚れた男をモノにするなら、もっと冴えた手があるじゃない。折角手に入れた魔法でさぁ」
「……なに」
「今すぐ乗り込んでいって、坊やの手も足も二度と使えないぐらいに潰してやりな」
「!」
「あんたなしでは何もできない体にしてやるんだよ。そうすれば今度こそ坊やはあんたのもんだ。身も心もぜーんぶねぇ」


 ところが、今度は人外の存在であるキュゥべえからもっと根本的な問題提起がありました。
 第6話より。魔法少女になるときには、キュゥべえが、契約した少女の魂を吸い出してソウルジェムに格納する、という工程があること。だからそのとき、肉体は単なる抜け殻になってしまう、という説明でした。

「君達魔法少女にとって、元の体なんていうのは、外付けのハードウェアでしかないんだ。君達の本体としての魂には、魔力をより効率よく運用できる、コンパクトで、安全な姿が与えられているんだ。魔法少女との契約を取り結ぶ、僕の役目はね、君達の魂を抜き取って、ソウルジェムに変えることなのさ」

「むしろ便利だろ?」
「ぇっ」
「心臓が破れても、ありったけの血を抜かれても、その体は魔力で修理すれば、すぐまた動くようになる。ソウルジェムさえ砕かれない限り、君達は無敵だよ! 弱点だらけの人体よりも、余程戦いでは有利じゃないか」

「君達はいつもそうだね。事実をありのままに伝えると、決まって同じ反応をする。……わけがわからないよ。どうして人間はそんなに、魂の在処に拘るんだい?」

 人間にとって肉体とは、そもそも人間とは、何なのか? 一番大切なものは何なのか? キュゥべえは、「魂」さえ保護されれば人の存在は維持されている、「魂」こそが人間である、そう考えているようです。実際、彼等にとって肉体とは、いくらでも替えのきくもののようです。

 第7話では、情報というものが何なのか、それを考えさせられる発言がありました。
 杏子が、自分の過去を語るとき、そこには、人のために、と思ってしたことが、その人の事情というものに対する認識が欠けているために、結局悲劇を招くことがあるという苦い教訓がありました。

「娘のあたしを、人の心を惑わす魔女だって罵った。……笑っちゃうよね! あたしは毎晩、本物の魔女と戦い続けてたってのに」
「あたしの祈りが、家族を壊しちまったんだ」
「他人の都合を知りもせず、勝手な願い事をしたせいで、結局、誰もが不幸になった」
「そのとき心に誓ったんだよ。もう二度と他人のために魔法を使ったりしない。この力は、全て自分のためだけに使い切るって」

 利己主義に見えた杏子には、こういう経験があったわけです。
 で、同じ第7話では、仁美が、この理由は私の推測ですが、好きな恭介に対して積極的になれないさやかに行動を促すために、自分は恭介が好きだ、告白する、しかしさやかはずっと昔から彼を好きだったのだから自分よりも優先されるべきだ、と言ったようなことを言います。しかし、さやかにはさやかの事情があるのです。

「あたしね、今日後悔しそうになっちゃった」
「……」
「あのとき仁美を助けなければって、ほんの一瞬だけ思っちゃった。正義の味方失格だよ。マミさんに顔向けできない──!」
「……」
「仁美に恭介を取られちゃうよぉ! でもあたし何もできない! だってあたし、もう死んでるんだもん! ゾンビだもん! こんな体で抱きしめてなんて言えない……キスしてなんて言えないよ……」

 杏子の語ったことが、その直後に現実に襲い掛かってきた、というわけですね。

 価値観が残酷であることもあります。
 第8話のほむらの台詞より。

「そうやって、あなたはますますまどかを苦しめるのね」
「まどかは、関係ないでしょ」
「いいえ。何もかもあの子のためよ。……あなたって鋭いわ。ええ、図星よ。私はあなたを助けたいわけじゃない。あなたが破滅していく姿を、まどかに見せたくないだけ。ここで私を拒むなら、どうせあなたは死ぬしかない。これ以上、まどかを悲しませるくらいなら、いっそ私が、この手で、今すぐ殺してあげるわ、美樹さやか!」

 まどかが全てであるほむらは、それ以外の人間に対しては、その存在さえ手に掛けようとする。

 人の社会についても、本作はまた違った見方を呈示します。
 第9話でキュゥべえは色々語りますが、長すぎるのでここで引用するのはやめにして、それに対して私が思って書いたことを引用します。

 つまり、キュゥべえには、一人の人の稀少性がわからない。それは、キュゥべえのいる世界では、各個体にはそれほど多様性がないということを示していないか。だから、誰が生きても死んでも同じ。
 そしてまた、それはつまり、各人が同じだけの情報を自然に手に入れられるのではないか。

 ここで補足すると、心と心で直接対話できるように見受けられるキュゥべえ達は、情報の共有がかなり進んでいることでしょう。そういう社会で、各人にはどれだけの差異が生じ得るのでしょうか。また、

 さて、人類の間でも、他者のために、全体のために犠牲となる行為は尊ばれるものである筈です。なのに、どうしてキュゥべえの言うことにはこんなに抵抗があるのでしょう。
 それは恐らく、キュゥべえの言い方が非常に客観的な表現になっていることが原因ではないでしょうか。
 物語などで、人が皆のために犠牲になろうとするとき、そこには大概強烈な感情が存在し、一番大切な自分を「凌駕」する価値を持つもの/人をドラマティックに見出し、そして、自らを擲つのです。特別に思い入れのない誰かのためにそういうことをするのは……?
 この二つは、まるで印象が違います。同じ行為なのに。


 大体において、争い、諍いというのは、見解の相違、即ち価値観の違いから生じます。
 ここに、他、異る価値観、そういうものに対する不寛容が争いを生じるということが導かれます。侵略とかも、自分が大事だと思うものが他者よりも優先されるという見方から発生するわけです。
 そのことを喝破し、登場人物にこう語らせたラノベがありました。

「なぜなら神を一つしか認めないような宗教は必ず戦争を巻き起こすからです」


 不寛容の一つのパターンとして、自分が他者よりも優越しているという意識があります。その中から更に一つのパターンを選んでみると、「高尚」な(と自分で思っている)作品を書いている物書き、これがあります。
 ノーベル文学賞を受賞した某作家とか、どっかのエログロ作家とか、ノンフィクション作家とか。
 こういう人達は、自分は、そして自分の思想は立派であると考えている。そして、神であることに慣れている。何故なら、作品世界で作者は神だから。
 そういう人が、いやもっと上を見るべき、と考えずに自分は他者に優越していると思うような人が、権力者になる。これは、なんかこう、悲劇ですよね。法律を無視して、ルールを作ってもそれを当てはめるかどうかは俺が決める、とか。まあ、外から見たら悲劇は往々にして喜劇ですが。

 私は、ずっと日本が好きでした。
 さて、では、日本的なものとは何でしょう。
 例えば、自他ともに認める伝統芸のである歌舞伎。あれはどうか?
 歌舞伎は、本当に歌舞伎でしょうか。[かぶ]いているでしょうか。伝統として受け継ぎ、引き継ごうとしているものは、歌舞伎の本質なのでしょうか。それは形だけで[かぶ]く精神は失われてしまっていないか。伝統として伝えるべきものを、間違っていないか。
 まあ、簡単に言えば、私が日本とは何かを考えるとき、それはそこにあるものそのものではなく、枠組み容れ物、それが本質なのではないか、と思うのです。
 思えば日本という国には、様々なものが集まってきています。
 文化については多くの人が意識しているでしょうが、全然関係のない大陸のプレートとか、海流とか、色々なものが。いや、海流は関係あるかも。それによって多様な人が集まり、こういう「容れ物」を作り上げたのかも知れません。
 本質が「容れ物」であるということは、入ろうとするものの「価値観」をそれほど限定しない、ということでもあります。なので、「価値観」に対する姿勢が剛直になったとき、日本らしさというのは失われたとも言えます。
 不寛容以外には寛容な社会。いや、社会というとちょっと違うかな。そのレベルでは不寛容は多々あった。
 総体としてそういう国。
 「価値観」について色々考えるとき、懐かしくそういう国を思い出すのです。

 そもそもそれも、フィクションだったのかも知れませんが。

tag : 魔法少女まどか☆マギカ

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水響 俊二 [MIZUKI Shunji]

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