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独り言: 脱グローバル化の時代

 年頭なんで、各界の著名な人々へのインタビューとかが沢山世に出ています。
 特に経済界の人、どっかの社長とか経済評論家とかの口から良く出てくるのが、グローバル化、グローバリゼーションという言葉ですね。日本は長い間、ものづくりで食ってきましたし、今でもものづくり大国とか自称しています。
 さはさりながら、それだけではもう先が見えている。
 「ものづくり」程ではなくてもやはり長く掲げられている言葉があります。知財とかソフトパワーとか、要するに知識・知恵・情報みたいなものが重要だ、というスローガンです。知財立国なんて言葉もありましたね。

 まあ、世界に乗り出そうというんでグローバル化、と言ってるんでしょうが、なんかこう、ずれみたいなものを感じるんですよね。どうも、いつまでも20世紀型製造業のノリで考えて語っているんじゃなかろうか、と。
 そもそも従来のものづくり、つまり製造業とソフトではだいぶ違いますし、ものづくりも変わらなければいけない。
 20世紀までは、良いものを安く、そういう方針でした。でも、それだけではもういけない、と言われてもう長いんですから。

 モノを売るときにある会社なり何なりが消費者による選抜で勝ち残るには、やはり、そこだけが作れるモノというのが有利なわけです。他にない機能、性能、デザイン、その他の何か。それが競争力になるわけですね。
 ところが、最早製造業の世界では規格化が進んで、独自性を出しづらくなってきている。
 自分達にしか出来ないことを見付けるには、(ノウハウがものをいう)素材だったりモノを使って展開するサービスだったり規格そのものだったり、そういうソフトの世界になってきているのです。
 もう、狭義の製造業は途上国の商売になっています。

 さて、では振り返って日本はどうなのか。
 人件費も土地も物価も高く、とても数で勝負するなんてことはやっていけませんね。
 長いこと唱えられてきた「ソフトパワー」に本気で注力しなければいけない。もう限界を過ぎているのです。後がない。
 それを実感してのことか、「クールジャパン」だなんだと言って国が乗り出してきました。
 でも、彼等の言うことはどうも製造業の、それも古い時代の考え方にとらわれているように思えてならない。

 例えば、自動車の一番の存在意義、つまり本質は、それを用いて移動することですね。それができないものは、どんなに頑張って作ったものでも自動車としては売れない。
 そして、移動を便利にする、という要求自体は世界中のどこの国にでもあるわけです。だから、どこの国にでも売れる。
 なので、自動車の販売戦略は、移動する機能をいかに支援するか、というところに注力することになります。そして、他の部分は「現地化」することになるわけです。

 ところが、クールジャパンとして売り出そうとしているもの、観光や食文化、そしてポップカルチャーなどは、その本質が「特異性」であるのです。

 例えば観光。
 観光客は何のために観光地を訪れるか。それは、そこにしかないもの、景色とか建物とか、そういうものを目当てにしているわけです。
 マッターホルンが人気を博しているようだ。それでは、富士山を削って同じような形にしたら観光客が沢山くるか?
 そんなバカなことは誰も考えませんね。そういうことです。
 それでは、ポップカルチャーはどうか。
 これは、土地でなく民族ですね。日本民族にしか作れないもの、それが商品になるわけです。ここで「民族」を持ち出したのは、私の中では「文化を共有する集団」が「民族」であるからです。
 富士山の例と同様、これも、海外ではこれが人気らしい、だからそれを真似よう、なんてことをしてはならないわけです。
 売るものの本質、それが「特異性」なので、自動車のように考えてはいけないのです。

 キリスト教に「煉獄」というのがあります。
 これは、某氏の話によると、布教の過程で生れたものらしいですね。まあ、他の人がそういう説明をしているところを聞いたことがありませんが。
 何かというと、異教徒のところに布教に行ったら、その地の人が聞いてきたらしい。キリスト教に改宗したら、死後天国に行けるというのはわかった。ならば、我等の先祖はどこにいるのか。
 宣教師は、まあ教義からすると、地獄にいると言うしかありませんね。なのでそう伝えたら、彼等は、ならば我等も地獄行きでいい、先祖のいるところに行く、というわけです。
 困ったキリスト教側は、煉獄というのを導入しました。先祖は天国でも地獄でもないところにいる。あなた達が改宗して先祖を導けば、共に天国に行ける、とそう教えることにしたわけです。
 結局、その「煉獄」は、現代ではあまり認められていません。端的に言えば、そんなのは歪められた文化ですからね。
 要するに、文化を売るために「現地化」するのは失敗の元、というわけです。

 これと反対の例を挙げると、マクドナルドやコカコーラでしょうかね。これらは世界中で同じ味だそうですから。
 ただ、日本でもカップラーメンなんかは地域によって味を変えているそうです。それは、「本質」がオリジナルの味そのものにあるわけではなく、風味とか食感とかそういうところにある、という意味だと思います。

 変えてはいけないのなら、どのようなものであるべきか。
 それは、その民族が、単に自分達が好きだからという理由で作り上げた、そういうものであるべきなのです。文化というのは、感じ方や考え方なのですから。だから、そうでないものは、ニセモノです。自然発生したものにのみ、価値があるのです。例外は数少ないと思います。
 文化は、民族そのものであると言えましょう。
 本質は何なのか、そのことにいつも気を配らなければいけません。それがアイデンティティなのです。

 では、日本とは?
 私は、日本を売り物にするのなら、その本質はカオスだと思います。
 何でも取り込み、咀嚼して、外から持ってきたものの筈なのに日本のものになってしまう。単に色々なものが入っているだけではなく、相互に融け合っています。
 カレーライスは、元はインドからイギリスを経てやってきたのですが、インドのものとはまるで別物です。Curryに牛肉が入るなんて事は、インドでは考えられませんよね。
 そのカオス性は、取り込んで自分のものにしてしまったら、全て同等です。何にでも真剣に取り組む人が登場します。
 手塚治虫は大人も読める漫画を描きました。アニメ『ルパン三世』のスタッフは、大人の鑑賞に耐えるアニメを目指しました。DVDのマルチアングルの機能を最初期に商用コンテンツに導入したのはアダルト業界でした。
 なんでもあり。それが日本文化であると考えます。
 以前紹介した『ハルヒ in USA』で解説されていたような「文化のグローバルデータベース」から「文化要素」を取り込んで構築するという物語制作手法、それはいかにも日本的と言えましょう。

 ちなみに、ここのブログをこんなデタラメなごった煮のものにしているのも、実はそれを意識してのことです。

 さて、そうは言っても、ここに大きな問題があります。
 言うまでもない、言語の壁です。

 大体において、翻訳の時点で様々な文化要素が毀損されることと相場が決まっています。ですが、日本文化の場合、特にそれが大きいのではないかと思います。
 『日本語教のすすめ』という本があります。言語社会学の専門家で、主に日本語を研究している人が書いた本です。
 その中で、著者の鈴木孝夫氏は、日本語を「テレビ型言語」と分類しています。というか、日本語は世界の中で唯一のテレビ型言語であると言っています。
 テレビ型言語とは何か。
 氏に言わせれば、他の全ての言語は、「ラジオ型言語」です。音声だけで充分な伝達ができるという意味です。それに対して日本語は、音声に文字表記の映像も加わって初めて成立する言語であるというのです。
 「同音衝突回避の原理」というのがあるそうです。混同する恐れのある単語が同じ発音であることはあり得ない、というものです。例えば、英語のbat(蝙蝠, 棍棒)のように全く意味の違う言葉でないと同音語は成り立たない、ということです。
 ところが日本語では、水星と彗星、科学と化学などと言った、「原理」に外れた混同しそうな同音語があります。更に言えば、それを楽しんでいたりします。水遊びの施設のある遊園地を遊園「池」と表記したり。
 また、失語症の研究で、日本語を母語とする人の場合、音声を理解できなくなっても、文字を見ると意味がわかる、という状態になることがあるそうです。
 日本語では、文字の映像も言葉の一部なのです。
 これを読んだとき、思い出したことがあります。
 日本人は、「日本」を「にほん」と読んだり「にっぽん」と読んだりしますね。「にほん」派の人と「にっぽん」派の人がいる、というわけでもなく、一人の人が使い分けたりすることもしばしばです。こんなこと、他の国であるのでしょうかね。

 こんな言語ですので、当然のことながら、そのこと自体が作品の中で取り上げられたりします。
 『涼宮ハルヒの分裂』より引用しましょう、

 俺の名前について、佐々木は面白がった。
「キョンなんて、すごいユニークなあだ名だね。どうしてそんなことになったんだい?」
 俺はしぶしぶ間抜けなエピソードと、妹の愚行を話してやった。
「へぇ。キミの下の名はなんというんだ?」
 口頭で読みだけ教えると、佐々木は首と目をそれぞれ別の方向に傾けて、
「それがキョンになるのか? いったいどんな漢字で……あ、言わないでくれたまえ。推理してみたい」
 しばらく面白そうに黙っていた佐々木は、くくくと笑いながら、
「多分、こんな字を書くんだろう」
 ノートにさらさらとシャーペンを走らせた。浮かび上がった文字を見て、俺は感嘆の気分を味わうことになった。佐々木は正確に俺の名前を書いていたのだ。
「由来を聞いていいかい? この、どことなく高貴で、壮大なイメージを思わせる名前の理由」
 まだ俺がちびっ子の時に尋ねたとき、親父から返ってきた言葉をそのまま教えてやった。
「いいね」
 佐々木が言うと本当にこれがいい名前であるように思われてくる。

『涼宮ハルヒの分裂』pp.83-84

 他の言語でも言葉そのものをネタにしたやり取りというのはあると思いますが、どういう漢字なのか、みたいなのは中々ないでしょう。
 例えば、以前紹介した『創世記機械』に、どうして「フィリップス」という名前の最後に「Z」がつくのか、みたいな話がありましたが、このキョンの話ほど面白いとは思えませんね。

 こんな感じで、日本語はそれ自体がカルチャーとして売り物になる言語であると私は考えます。
 いっそのこと、日本語がわからないと作中の会話のネタがわからないような作品を作って売り込んではどうか、とか思ったりするくらいです。

 冒頭で述べたように、20世紀型製造業的なものづくりは、もう限界を過ぎています。
 グローバル化という言葉はもう使い古されていて、世界のどこにも通用する「標準的なモノ」を作って売る、そういうイメージがついてしまっている気がするのです。
 もう、それからは脱却して、その先を見るべきではないでしょうか。
 ソフトパワーで勝負することにするのなら、どこにでも出せるようなものを、ではなく、世界に出したら批判されるくらい独自性と特異性の高いものを作ってもいい、そんな気構えで、日本で自然発生したものを広める。
 大体、アンチがいるくらいでないと熱烈なファンはつかないものです。誰にでも受けるものは、容易にその座を奪われます。
 ローカルなものをグローバルな市場で売る。
 市場の形成や流通などは、もうかなりグローバル化の理念のもとに構築されています。
 これからは、それらの「グローバル化の成果」を利用して、ローカルなものを武器に世界に打って出る、そういう戦略で展開するべきなのではないでしょうか。
 そして、ものづくりに於ても、その本質を見据えた上でなら同じことが言えるのではないでしょうか。

 それが、タイトルに書いた「脱グローバル化」の意味です。

関連項目

tag : 日本 ポップカルチャー

コメント

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No title

あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、新年1発目のコメントなのにアレですが、このエントリを読んで思ったことを徒然なるままに書いてみたいと思います。長くて鬱陶しいかもしれませんがお許しください。

○「グローバル化」と「ローカル」について
いわゆる「グローカル化」というヤツでしょうか?いや、ちょっと違うか……。
ちなみに僕が大学のマーケティングの講義で教わった「グローカル化」の例は洗濯機に関するものでした。
日本の家電メーカーが発展途上国へ市場を拡大することになった。しかし日本ではよく売れている洗濯機が、その国では売上が芳しくない。何故か?
その洗濯機は「静か過ぎ」だったのです。日本人は静かで震動の少ない洗濯機を好み、メーカーはそれに応える製品を作りました。そして同じもの(日本で標準化したもの)を海外市場でも売ろうとしたのです。しかし、これがそもそも間違いでした。その国の人々は静かな洗濯機を好まなかったのです。「静か過ぎてちゃんと動いてる気がしない」と。そこでメーカーはわざと洗濯機の音と振動が出るようにしたところ、その洗濯機は飛ぶように売れたそうです。
ここでは洗濯機の例を挙げましたが、つまり世界規模での普遍化を目指すならば地域の文化・国民性に順応していくことが必要である、という考えですね。
……う~ん、やっぱり水響さんの結論とはちょっと違いますかね(汗) まぁ今回のエントリで思い出したことをただ書いただけと思ってください。

○日本語について
同音異義語を楽しむのって日本人の文化とも言えますよね。和歌なんてまさにそうですね。字数が限られている中で、同音異義語を利用することで歌に複数の意味を持たせたりしますし。伝統的な“言葉遊び”の文化ですね。
あ、あと日本語を使った言葉遊びと言えば小説家の西尾維新氏も有名ですかね。西尾氏の作品が時に「映像化不可能」と評されるように、西尾氏は小説が「活字媒体であること」を最大限に利用している作家のひとりです。そのような作風を可能にしているのも、日本語が「テレビ型言語」だからかなぁ、なんて。

○名前について
もう完全に私的なことなんですが、以前大学の友人や先輩方と「自分の名前が好きかどうか」っていう話題で盛り上がったことがありまして。で、僕は自分の名前が気に入っていると言ったら「変わってるね」って言われたんですよ。
とまぁそれは置いておいて、僕が自分の名前を気に入ってるのって、僕の名前の一部が父の名前から受け継いだものだからなんですよね(漢字の読みは違いますが)。祖父が父に名前をつけ、その父の名前の一部を僕が受け継いでいる。祖父・父・僕が連綿と「続いてる・繋がってる」ことが感じられるんですよね。だから僕は自分の名前が気に入っています。そういう点でも、やっぱり日本語は「音」だけではなく、「見る」ことで成り立つ言語なんだろうな、と。漢字の読みが違うので、音だけでは僕の名前が父の名前から一部を受け継いでいることはわかりませんが、漢字で書いて見れば一目瞭然ですから。

……えーと、非常に長くなった上に毒にも薬にもならないような内容ですみませんでした(汗)

Re: No title

試される大地さん、あけましておめでとうございます。
こちらこそよろしくお願いします。

> ○「グローバル化」と「ローカル」について
本文に書いた自動車の話は、まさにそういうことをイメージしていました。洗濯機も同じで、その本質は何かというと「洗濯すること」ですから、それ以外の部分のローカル化で現地対応、ということですね。
対して今回のメインテーマは、その本質が「異文化」を売ることなので、それをローカライズしたら「洗濯できない洗濯機」になってしまうわけです。和服で演歌を歌うビートルズに魅力があるか、ディズニーが原作・脚本・キャラデザ・監督を宮崎駿に依頼することがあり得るか、ということです。
これは、以前触れた『アイマス2』にも共通する問題で、そもそも、この商品は一体何を売ろうとしているのか、そこを把握していないと失敗するわけですね。
ま、世の中、想定外の用途で売れた商品、というのもありますけど(笑)。

日経BPのサイトに興味深い連作コラムがあるので、参考までにお伝えします。でもここ、登録(無料)しないと2ページ目以降が見られませんが。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20101013/216613/
異文化市場で売るためのモノづくりガイド
「ローカリゼーションマップ」

> ○日本語について
西尾氏の『化物語』はアニメ化されていますが、海外の人が興味を持って原作を当たったりしたらどういう反応するでしょうね(笑)。

> ○名前について
なるほど、名前にも日本語的なところが。まあ、人の名前というのは文化の集大成なのかも知れません。今、『赤毛のアン』を思い出しました。アンは、名前の最後に"e"が付いてるんだと主張していましたね。
それと、自分の名前が好きだというのはいいことですね。やはり名前は、Identifierであり、分身みたいなものですから。
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水響俊二

Author:水響俊二
水響 俊二 [MIZUKI Shunji]

暫定的に、18禁作品の感想などは裏サイトで書いています。
   

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