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独り言: ぶら美で道八を見ながら考えた政治的なこと

 今日(2015-02-13)の『ぶらぶら美術・博物館』は、
と題して仁阿弥道八の作品を紹介していました。

 まあ当ブログの枕詞なので今回も書いておくと、私はどうもやはり、こういうのが好きなんですよね。西洋よりは日本。絵よりは工芸とか。西洋の絵を見ても、感心はしても感動はしないというか。

 番組中で紹介された中で特にいいなーと思ったのを挙げると、こんなところでしょうか。
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御本立鶴文茶碗
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銹絵鶴香合
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色絵寿星立像
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銹絵桐葉形皿

 さて、今回の番組で特に強調されていたのが、「写し」というキーワードです。
burabi_165_5.png
尾形乾山の写し(色絵桜楓文鉢)

 コピーではないんだ写しなんだ、という話ですね。
 何だか、今で言う二次創作みたいだな、とか思いました。つい先日にも触れたように、TPPと著作権法の絡みで、非親告罪化というキーワードがついにNHKのニュースで登場した、ということがあったというのもあります。

 こういう「写し」の文化というのはやはり、歴史が長くないとできないんじゃないかと思います。
 まあ、現代の人が海外から輸入した制度や理論などは写しなんてものではなく、粗悪なノイズだらけのコピーばかりで、いかに知性の面で劣ってきているかというのがわかろうというものですが。

 そして勿論、例えば大量に存在する二次創作同人誌等なんぞを道八と並べるな、という受け止め方もあるかも知れません。
 しかし、例えば東京スカイツリーを、富士山の高さまで伸ばすことができるでしょうか。いや、技術がとんでもなく進歩すればできるかも知れませんが、すそ野があるからこその頂上なわけで。
 不思議なんですが、これがスポーツとかだと、「層の厚さ」というのを誰もが口にするんですね。しかし文化になると、いいものだけ作ればいい、あとは消せ、という人が大変多くなる。
 現代の写しの一種と言える二次創作にしたって、そうやって育った達人もいるわけで。

 Copyrightの考え方には、どうもデッドコピーの感覚が染み付いているように感じますが、これはやはりあちらの感性なんですかね。
 例えば、石で何千年も残る神殿を作る文化。しかし、もうそこを訪れる人はいない。
 一方では、二十年毎に別のところに作り直したりする文化もある。それは、建物ではなく技術や考えや、つまりは人を遺す文化です。

 著作権を死語何十年も主張できるようにし、それを延ばし続ける文化は、「写し」の文化をもしかすると理解できないかも知れない。
 そして現代の日本の、粗悪なコピーしか作れない偉い人たちは、やはり同じくそれを理解できないのかも知れない。
 だって、もっと偉い人たちが価値を認めていないのだから。

 そういえば、今ボストン美術館にある上の「銹絵桐葉形皿」は、解説の中島誠之助の推測では、モースが手にいれたときには共箱、つまり箱があったのではないかとのこと。しかしあちらではそれは要らないものだから捨ててしまったのではないか、と。
 しかしこういうものの場合、来歴のようなものも価値であり、誰が持っていたかとかそういうことも評価されることもあるわけで。
 ……いきなり関係ないことを思い出しましたが、漫画『GUNSLINGER GIRL』で、確かヘンリエッタだったと思うんですが、担当官(エッタならジョゼ)からもらったものの包み紙を大切に残そうとしたシーンがあったかと。

 いやもう話がとんでもない方向にそれましたが、まあそういう辺りは考え方の違いの範囲内かも知れません。
 しかし、考え方の違う人たちの基準で自分たちの文化を計ろうとするのは、それは何かおかしいんじゃないか?と思うんですけどね。まして、それでルールを決めてしまうなど。
 まあ、彼らにしてみれば文化とか情報とか知財とかソフトウェアとか、そういうものになんぞ価値があるなど思ってもいないわけですが、それでずっと敗け続けてきたことに、そろそろ気づくべきではないでしょうか。

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水響 俊二 [MIZUKI Shunji]

暫定的に、18禁作品の感想などは裏サイトで書いています。
   

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