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独り言: 焼き直しシリーズ(2) 日本人の宗教観

 ネタを二つしか用意せずに始めてしまったこのシリーズ、三つ目を用意する前に二つ目を書いてしまいました(笑)。
 今回の話の元ネタはこれです。

 この元ネタの文章は、まあ敢えて不穏当な言葉を使えば「でっち上げ」たものですが、そこで述べた宗教観に関連する記述は、日本人の一人である自分自身の実感を表現したものです。
 日本人はよく自分達のことを「無宗教」と表現しますし、主に欧米人からも宗教に対し無節操(良く言えば寛容)と評価されているようです。
 しかし、日本人は日常生活の中で、明らかに宗教的な行動を頻繁に起こし、宗教的な考えを懐いています。
 日本人にとって宗教とは、果たしてどんなのものなのか。

 というか、そもそも宗教とは一体何なのか。
 その役割はと言えば、例えば人々の心の救済であったり、例えば共同体の維持であったり、例えば民衆の統治のためだったり、色々あるでしょう。
 で、その形態はと言えば、通常イメージされる「宗教」では、教祖が語った、もしくは先祖より受け継がれてきた言葉があり、それが戒律や教義として中心に位置しています。日本人の多くが自身を「無宗教」と表現するのも、多分そのようなものを持っていないからでしょう。

 そういった教義は、後世の人による解釈の違い、時代の変化による実情との齟齬、その他様々な理由で不都合を多く生じています。その本質は何なのか、どの言葉が何のためにあるのか、語られた時代の何に相応しているのか。それらがはっきりしていればいいのですが、そもそもそれを読み取る時点で差異が生じてしまいがちです。

 ところで、日本に存在する「神道」、ここではそれはあまり近代的なものをイメージしていませんが、それは上記のような教義を持ちません。歴史的にはそういった部分は主に仏教が担ってきました。
 神仏習合は、神道の(つまり土着的な)神と仏を同一視することなど、単純に一緒になっていることを示しているように考えられているのではないかと思いますが、実際にはそれは、階層的に、レイヤー構造になっているのではないでしょうか。

 つまり、神道的なものは感性・感覚的な部分を担当していて、それは例えば、共同体を維持するための慣習だったり(村八分で二分は残したりダンバー数超え対応の「お天道様」の概念とか)、自然災害から逃れるための智恵だったり(神話等が危険な場所を示唆していたり)、健康を維持するための衛生観念であったり(水や塩による清めの概念)、森林資源を継続的に利用するための知見だったり(木の種類の選択や植林の習慣)、そういったものを伝えてきた。
 また仏教的なものはより抽象的な部分を担当していて、形而上的なことであったり、理論による説明であったり、そういったものを伝えてきた。
 日本人の宗教感覚は、基底の部分に神道的なものを横たえ、その上の知性・理性的な部分を、場合によって置き換えるような構造をしているのではないでしょうか。

 だから、時と場合に応じて表面的には違って見えるし、融通無碍です。キリスト教徒であっても、欧米の根っからのキリスト教徒とは何か違う、と自分でも感じていることは多いようですし。
 それは喩えて言えば、神道はパソコンのOSで、仏教やその他の宗教はその上で動くアプリケーションのようです。キリスト教になどは、他OSにバンドルされたフォントをコピーしてきて使う程度の感覚かも知れません。

 そして、無節操に神社や寺に行く割に、キリスト教の教会などにはそうそう行きません。観光地化していたり美術館のような場所であれば話は別ですが。
 それは多分、そういった場所は上記の比喩で言えば、OS部分からの入れ替えを要求されるような気がするからではないでしょうか。そして、そのような入れ替えができないのであれば自分は場違いであるから遠慮するべきという感覚が生じるからではないでしょうか。

 この構造・仕組みでは、本質的にそう簡単には変化しない部分が神道的なものにより支えられており、「言葉」のような抽象化された、しかし矛盾するようですが具体的なものと結び付いた部分は上位にあり置き換え可能となっています。
 この階層構造、モジュール構造が、無宗教のように見えつつ、無節操でありながら実は意外と強固な日本人の宗教観の特徴を形作っているのではないか、と思います。
 これは、極めて合理的であり柔軟であると言えるのではないでしょうか。
 そこには、入れ替わりの少ない閉鎖的な世界で、対立を決定的に悪化させることを避けるための対処も含まれています。

 現代では、世界は狭くなり、「ムラ」のようになってきています。しかし、そこに存在する人の数は、人の能力で安定した個体間関係を維持できる数を遥かに超えています。だからそこには、閉じた社会を運営するための智恵が必要になっていると言えます。
 そこで日本的な考え方が役に立つかどうかはわかりませんが、少し考え直してみるのもいいかも知れません。

コメント

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No title

  イザヤ・ベンダサン(山本七平)さんは自著「日本人とユダヤ人」で「日本人は日本教という宗教の教徒」と
いうような事を書いてますね。

 この教義に反しない範囲では寛容で、反すると排他的になると、いうような事も。

 読んでいて「なるほど」と思わされる一冊でした。

Re: No title


> 「日本人は日本教という宗教の教徒」
本を読んだわけではありませんが、ちょっと調べてみた感じでは、このエントリで想定しているものと非常に似ている感じですね。

>  この教義に反しない範囲では寛容で、反すると排他的になる
この反するか反しないかという点について、私はレイヤー構造を想定しました。
PCの比喩に当てはめてみれば、反するというのは特権違反の例外発生というところでしょうか。
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Author:水響俊二
水響 俊二 [MIZUKI Shunji]

暫定的に、18禁作品の感想などは裏サイトで書いています。
   

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