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読んだ: 『クール・ジャパンはなぜ嫌われるのか』感想

 以前『ハルヒ in USA』を読んだ頃何度か触れたことがありますが、その作者の著書です。

クール・ジャパンはなぜ嫌われるのか - 「熱狂」と「冷笑」を超えて (中公新書ラクレ)クール・ジャパンはなぜ嫌われるのか - 「熱狂」と「冷笑」を超えて (中公新書ラクレ)
(2014/04/09)
三原 龍太郎

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 タイトルからして「なぜ嫌われるのか」とある通り、クール・ジャパン政策が嫌われていることはもう前提で、その分析ということになります。私も、「「息切れクールジャパン」 by Newsweek日本語版」というタイトルでそういう趣旨の文章を書いたことがあります。というかしょっちゅうかも知れませんが。

 最後のまとめとなる第六章にこんなことが書いてあります。

 もちろん、ここまで読み進めてもなお、クール・ジャパンは「気に食わない」し、「放っておいてくれ」という考え方は十分に成立しうる。

 しかし、さて。「なお」という表現がある以上、ここに至るまでの間にそれを翻す可能性のあることが書かれているはずですが……ありましたか? 基本的に、分析しているだけですよね。本人も「おわりに」で、この本のことを「知的中間報告」と位置付けていますし。

 どうでもいいですけど、どうにもこの人のする分析というのは、私には感覚的に馴染めないというのもあります。行為に主眼を置きすぎているというか。例えば、第二章の「クール・ジャパンはどう「嫌われる」のか」にしても、四つに分類したりしていますが、分類が「こういう風に」なので。これ、もう一歩踏み込んで、クール・ジャパン「政策」が嫌いなのか、クール・ジャパン政策が推している「もの」が嫌いなのかなどというようにできないのでしょうか。
 コンピュータのプログラミングで言えば、手続き型とオブジェクト指向くらいの違いがある感じ。
 などと、N88-BASIC - アセンブラ - C な人が言うのもおかしいですが(笑)。

 これに近い話は、最後(p252)にあるコラム「クール・ジャパンは世界を救う?」にも見られます。意図的になのかそうでないのか、明らかにクール・ジャパン「政策」ではなくその対象にもなっているような「もの」がこのコラムの題材です。

 ともあれ話を戻すと、この本に感じた問題点には(上記のような手法面のことを除けば)、
  • 題材がアニメに偏りすぎている
  • 批判の網羅性そのものが不充分
  • KY
といったものがあると思います。
 この内、一つ目については特にコメントしません。なんとなれば、アニメ等のポップカルチャー系以外のことはよくわからないからです。
 というわけで、残り二つについてコメントしますが、これらは結構関連があって絡まりあっていると言ってもいいくらいです。

 というわけでじゃあまず批判の網羅性の話。
 三原氏のようにラピュタのような言わば現在ではハイカルチャーに迫る位置付けのものから入った人はどう感じているか知りませんが、クール・ジャパン批判の中には明らかに、過去の経緯や現在進行中の問題があります。その確執から逃げていては第六章にあるような「クール・ジャパンは変えられる」というのも夢幻に過ぎないでしょう。
 それはつまり、一言で言えば表現規制の問題です。まさに現在も進行中というか真っ只中というか、少なくとも「真摯な対話の開始と継続」(p246)などという脳天気なことを言っている場合なのか、という感じです。

 他にもあります。
 政や官の宿命とでも言いますか、自分が表に立たずにはいられないこともその一つ。
 それは、必ずしも目立ちたがりという意味ではありません。もしかするとそれは真摯な想いから発せられた誠意なのかも知れません。つまり、責任者たるもの自らやってみせなければいけないのだという悲愴感溢れる決意とか。
 そして、おばちゃん(失礼)の大臣がイベントでロリータとか着て見せたりするという「痛い」光景を目にするはめになるのです。痛いというのは、そういう文化に親しんだ人からもそうでない人からも、です。
 しかも、これには副作用もありそうです。つまり、責任者である自分がやって見せるんだから「高尚」なものを、という話になったり。ところで、日常的に寿司を食っている日本人てどのくらいいるんでしょうね(笑)。
 とにかく、その辺りをわきまえない感性というかそういったものが、絶望的に政・官なんでしょうね。

 さて、上記のようにここからつながるように三つ目のテーマである「KY」に移ります。
 そういう意味では典型的なのが、中村伊知哉氏でしょうか。以前もNBOにこんな記事を載せていました。
 この中に、こんな指摘が出てきます。

知財ビジョンもそうだが、クールジャパンやコンテンツを話題にすると、「そんなの国でわざわざやることかよ」という批判が必ず飛び交う。マンガ、アニメ、ゲームの海外人気が認知されたとはいえ、未だサブカル(サブカルチャー)扱いなのだ。

 たまにいますよね、カルチャーにハイもサブもないだろうみたいなことを言う人が。
 そういう人が学校の先生とかになると……あ、この人学校の先生だ(笑)。いやそうじゃなく、小学校みたいなのを想定しているんですが。
 そういう人が、おとなしくてなじめない子供を壇上にあげてことさらに褒めあげたりしていじめを発生させたりするんじゃないでしょうか。
 著者の三原氏にはこの中村氏と似たようなところがある気がしますが、それは上記のように、最早ハイカルチャーとも言える宮崎アニメ(何しろ外国でも賞を取った)の人だからかも知れません。

 最後に、三つと言いながら四つ目の話題を(笑)。
 そもそも、この政策の目的、存在理由は一体何なのか。何故、何のためにあるのか。
 そのものでなく、何かの輸出のためのイメージ作りなのではないか。外交のための足掛かりに使われるのではないか。そういう懸念は、そう、当ブログ開設間もない頃にも書きました。
 今回の本の中にも、例えばp207に「「政治・外交」は従である」という節があります。しかし、一旦それが「使える」となったとき、外交・国益の前には、という考え方が出てくることはまず間違いないのではないでしょうか。何故なら、それを行う人にとってはそれが最重要の課題だからです。

 そういうことも含めて、触れてはいるけれどもやはり本質的には全く触れた意味がないという点で、やはりこのことは二つ目の話と通ずるものでしょう。
 結局、この本が「読み進めてもなお、クール・ジャパンは……という考え方は十分に成立しうる」というものであるのは、掘り下げが全く不充分だからなのではないか、と思うのですが、何分世間の反クール・ジャパンの主流派がどうなのかという点もそれはそれでよくわからないので、さて、実はそういう人はこれを読んで考えが変ったりしてるんでしょうかね。

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水響 俊二 [MIZUKI Shunji]

暫定的に、18禁作品の感想などは裏サイトで書いています。
   

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