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独り言: 合理主義と体罰

 私は言葉を、あまり一般的でない(自分独自の)ニュアンスを持たせて使うことがあるので、たまに整合性に問題が生じたりしますが、本エントリのタイトルで言う「合理主義」はどちらかというと一般的な意味で使っています。
 簡単に言えば、あまり深く考えず単に目先の効率だけで物事を判断すること。いつものように「理に適った」という意味ではありません。

 という何だか反省したかのような書き出しの直後に引っくり返してしまいますが(笑)、例えばよく、人の心は非合理的なものだみたいなことが言われます。しかし、果たしてそうでしょうか?
 合理的というのを、「理」、ここでの意味は物事の判断の基準と、判断の論理にわけて考えてみます。

 例:人は利己的である。
 いやしかし、他者を優先することもある。
 自分を優先するのが人の「理」であるという前提に基づくと、結局何も意味のあることを言えなくなってしまいます。しかし、価値判断の基準の想定がおかしいとしたら?

 つまり、人は利己的である。他者を優先したように見えても、そうすることが当人にとって利益なのである。そう考えることにより、不確定な部分を「理」に押し込めることができます。
 そして、結果的にそれが達成されなかった場合には、そういう価値基準を持ったとしても、今度はそれを実行するときの立案能力に限界があった可能性もあります。
 このように考えられるのが、判断の基準と論理にわけた理由です。

 つまり、人は合理的であったりそうでなかったりするなどという何の意味もないことを言うのは意味がなくて、どうせ何かを言うのなら、まあ正しいかどうかはともかく、意味のあることを言いたいですね。

 さて、昨今話題の「体罰」。
 上記の「合理的」とかなんたらの話は昔からの持論だし、別に私だけでなく他でも同様の主張は随所で見られるものです。
 しかし、こういう考え方、言ってみれば数式を扱うかのような考え方は、やらない人は徹底してやらないですね。どうせなら不確定な場所は一部分に押し込めてしまって他は共通化したい、みたいなのは。「人は利己的」の例で言えば、「利」の価値観を変えることは絶対にしなくて、結果、全体を不確定にしてしまう。

 筋肉はいじめることで鍛えられる。だから、心もいじめることで鍛えられる。
 そんな判断もしてしまう。

 件の桜宮の体罰についてですが、力だから体罰、という報道や意見が多いし、同時に、厳しい訓練と体罰の境界の線引きは難しいという声もちらほら。
 しかし、本当に論点はそこなのか?

 最初に報道に接したときに思ったのですが、「暴力」自体は大したことないですね。別に病院送りになり全治何ヵ月ということにはなっていない。傷害事件ではあっても殺人事件ではない(物理的には)。
 問題は、例えば他の人の前で懲罰的に叩かれたり、暴力と同時に為された脅迫だったり、そういった「暴力」の陰にあるものであり、それらが生徒を追い込んだ。そう解釈しました。

 形だけを見ていたのでは、結局どこに線を引いたらいいかわからなくなろうというものです。怒ることと叱ることの区別もつかない。

 叩けば良くなるんだ、という法則があったとして、ある人はだからモノや筋肉と同じように何もかもを扱う。人の心とかも。そういうと、反発する人の中に実は同類がいて、叩けば良くなるということ全体を否定する。しかしそれは逆境が人を鍛える「こともある」という事実に反する。
 結局どこにも線が引けずに、場合によって/論者によって結論が違うことになる。
 「叩く」ことが、場合によって、対象によって違うのではないかとは考えない。

 とまあそういうことを考えると、やり方は自ずと違ってくる筈です。もしかすると、それを突き詰めた先には、「力」に依存する訓練など存在しないかもしれない。まあ、そこまでは断言できませんが。なんせ、今回例に挙げているようなスポーツの世界は私には全くわかりませんから。

 「理」とは「断り」であり、「事割り」です。合理性について冒頭に述べたような合理的な考え方をする如く、「合理主義」を排して合理的に考えること。
 これは、今、社会の非常に多くの分野で欠けているものではないかと思います。

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水響 俊二 [MIZUKI Shunji]

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