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創作観: おねショタ3類型

 いや別に分類したからどうだというわけでもないんですけどね。前から思ってはいたことですが、たまたま最近そういう作品を読んだので、というだけで。
 また、下記のマトリックス、つまり組み合わせだと4つになる筈なんですけど、その内の一つってあまり見たことないし意味があまりないかもなーということでスルー。
 例として挙げる各作品は18禁のものばかりなので、以下一応トップページには出さないでおきます。

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創作観: マクロとミクロと物語

 しばらく前に「彼等は何に抗うのか」というエントリを書きました。
 そこで書いたことを簡単に言うと、物語の中で主人公などの登場人物に降り懸かる例えば天災だったりその世界のルールだったりするもの、乗り越えるべき苦難は、描き方によっては物語を成立させるための「お約束」、ある意味での「ご都合」になってしまうという話です。
 それをうまく表現するための方策としては、まあバランスが大事なのかなという位に思っていました。

 別にそれが違うというわけではないのですが、別の方向、もしくは次元に策を見出すことができるかな、というのが今回の話です。
 それは、例えば「トヨタは松下になれるか?」に書いたようなマクロ経済がどーしたこーしたという話から連想したものです。サンプルとしては有名どころとして『まどマギ』とか。

 そのトヨタが云々の中で私は、経済のマクロとミクロの違いについて、必ずしも大きさ、規模の問題ではないとしました。それはつまり閉じた系と開いた系である、と。例えば合成の誤謬が生じるのは、自らの行動が環境に影響を与えない前提で最善とする判断と、全体としてどうなのかという観点で合理的かどうかが食い違うということですし。
 勿論、経済にしても物語にしても、完全に閉じた系というのはないでしょう。というかそこまで考慮できる存在があるとしたらそれは神でしかないわけで。

 上記にサンプルとしてまどマギを挙げましたが、あの話の中で魔法少女達を縛るルールはその世界自体にはさほどなく、多くはキュゥべえが設定したものです。作品の世界に組み込まれたルールはともすれば、超越者、つまり作者とその人物と同じ次元に棲む読者/視聴者の世界のものになってしまいます。ですがあの作品では、それをする主体が作中にいる。だから、「所与のもの」として理不尽さを感じさせるものは最小限に止められていると言えるわけです。
 それはつまり、最初に挙げたエントリで言えば登場人物達が「抗う」ものが、彼等と同じ土俵にいることになり、その世界の中で繰り広げられる物語の内側にやってくる「閉じた系」になっているということですね。

 何だか、経済と物語という違い以上に、どうしてそう思ったのかよくわからない程違う世界につながりを見ちゃった話ですが、連想って実際そんなもんじゃないかなーなどとも思ったり。

創作観: 『ガルパン』を見て感じたリアルさ

 先日劇場版を見て、今日はBS11でやってた特番も見て思ったんですよね、『ガールズ&パンツァー』のリアルさについて。
 今回思ったのは、それは「実在する戦車や場所や建物等が出てくるため」かな、ということです。
 勿論これは、「実在する戦車や場所や建物等が出てくるため」という意味ではありません。

 ……あれ?……(笑)。

 まあ、ややこしいようでいて実際には一言で済んでしまう話なのですが、どうもそこまでの前置きは長くなってしまいそうです。
 というわけで、まずはその前置きから。

 リアリティについてはしばらく前に何度か、例えば「アイマス2騒動で思ったこと」というエントリなどで書いたことがあります。平たく言うと、リアリティと現実っぽさって違うよね、ということです。
 そういえば最近読んだ『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる 10』でもこんなエピソードがありました。鋭太の伯母の冴子さんの会社がいきなりなくなってしまったわけですが、それは、数年前から進出してたソシャゲで大失敗をしたからでした。
 その会社のパッケージゲームの通称『俺デレ』の登場キャラを使ったソシャゲが作られたのですが、外注に丸投げした結果とんでもない代物になっていたのです。

 冴子さんの不安は的中した。
 外注スタッフ制作によってリリースされたソシャゲ版「俺デレ」には致命的なバグがあったのである。
 人気ヒロインたち全員に、「彼氏」が実装されているというバグが……。

『だって、こんな可愛い女の子たちに彼氏がいないわけないじゃん。リアルでしょ?』

(p.145)


 リアルさとかリアリティとかと現実っぽさという表現は私が使い分けているだけであって、言葉だけ見るとどこが違うんだということになりますが。
 前者は、存在感……というとなんか印象の強さのようですね、実在感というか、そんな表現の方がニュアンスが伝わりやすいでしょうか。対する後者の現実っぽさというのは、我々が住む現実との類似性ということです。

 その実在感的なものを構築するのが、例えばその創作された世界の法則だったりルールだったりの存在と、それに従っている感じということになりますか。また、そのルールが「ありそう」と思えるかどうかというのもポイントですね。
 その法則というのが自然科学の分野のものだったりすると、典型的にはSF作品になるわけです。そういう意味で個人的に印象深いのは、ホーガンの『創世記機械』辺りでしょうか。

 さて、この辺りでやっと今回のテーマに入るわけですが。
 ガルパンを見てて感じたリアルさについて考えて感じたのは、その作品世界のルールをどうやって視聴者や読者に伝え、前提として受け止めさせるかということも創作においては重要だなということです。
 ガルパン見てれば、いくら搭乗者を保護する仕組みがあったって普通死ぬだろとか、建物ばんばん壊しちゃって建物の修復はともかく住んでる人の財産(つまり建物の中にあるもの)はどうなるんだとか、そもそも戦車のあの機動はいくらなんでもムリだろとか、突っ込みどころはいくらでもあります。
 でも、こういう娯楽作品なので、一々こんな設定があってと前置きするのはいかにも不粋で、そしてそれ以上に、作品の持つ娯楽性を損なってしまいます。つまり、入る前に興醒めしてしまいます。

 意図してのことなのかどうかは知りませんが、実在するものが沢山登場することで、その手順、つまり作品世界のルールを視聴者に伝える段階を大きく簡略化できるんですね。

 作中、画面上に実物(と感じられるもの)が登場する中で無茶苦茶ぶっとんだことが起きているという非現実感。この「ずれ」が、そこに現実との大きな「ずれ」が存在することを感じさせてくれるのです。
 これが、全くの架空の場所だったりすると、まずはそれが現実とどのくらい似ていてどのくらい違うのか、そこがそもそも不確定です。しかしそれが現実っぽい街や戦車だったら、座標軸や原点がはっきりするので、現実との違いがわかりやすい。
 こうなると、細かい設定を言葉で伝えなくても、まあ大体こんなところに何か設定があるんだろう、と受け止める側が想定することができるということになります。

 逆に言うと、それができない人はこういう作品の「非現実さ」を受け入れられず、つまり楽しむこともできないということになるでしょうけど。

 という風に考えてみると、これまではあまり気にしたことがなかったのですが、多くの作品で多かれ少なかれこういうことは行なわれていて、逆に、そういう現実との違いに違和感を覚えるような作品はその辺りがあまりうまくできていないかな、という風に感じました。
 何でもそうですが、無意識に感覚でやっているとどうにも手探り感があります。
 どういうことなのかを認識して行なうことは、失敗を避けることにつながるように思います。

創作観: 繰り返される「女大河」の失敗

 いや、今年のNHK大河ドラマ『花燃ゆ』のことなんですが、まだ半分くらいなのに失敗と言ってしまうのはちょっと先走りですかね。ただまあ、視聴率がかなり低いということで現状ではあまり成功しているとは言えないと思いますけど。
 また、タイトルに「繰り返される」と書いたように、私としては以前の指摘と同じ問題だと考えているし、実は指摘の内容もほぼ同じです。
 ならわざわざ書かなくてもいーじゃん、という突っ込みもありましょうが、そこはそれ、書きたくなったら書くというのがここのやり方なので。それにどうせ憶えている人いないだろうし(笑)。

 さて、前回書いた時の類型で考えると、主人公が『江』の江的ですね。つまり、現状を受け入れられずしかし何ら対策も示せない。『八重の桜』と比べると、地方にはいても前半の主要人物である吉田寅次郎(松陰)のそばにいたという意味では八重よりも恵まれた立ち位置にいるのに。
 その松陰も既に亡く、では後半は誰が物語の主軸になるのか。『八重の桜』では山本覚馬という、薩長視点のドラマでは中々注目されることのないヒーローがいたのですが、さて、例えば伊之助辺りがそこまで輝けるか?

 文が江に似ていると思った点とは、江の「戦はいやじゃ」というだけで何もできなかったようなところです。
 例えば松陰は、常識に反して、「生よりも価値のある死」を見てしまった。対する文は、俗に引き戻そうとするだけです。つまり、全く付いていけていない。
 しかしまあここで仮に、文が松陰の見出したものに対し「「生よりも価値のある死」よりも価値のある生」を突きつけてしまったとしたら、さすがに松陰の死は覆すわけにも行かないので、彼が後悔しながら死を向かえることになってしまう。それはいかにもまずいんですけどね。

 ここで前述のように、前回と同じような解説をしましょう。
 そこでは、ニトロプラスの『鬼哭街』というゲームを題材にしました。感想も書いていますが、なぜそれがここで出てくるのか。

 あの話は、主人公の涛羅と相手方となる豪軍、そして涛羅の妹の瑞麗が主要な人物だったのですが、涛羅と豪軍の戦いとは別に、涛羅の「死」さえ視野に入れた全く異る目的と手段を以て別次元の策謀を繰り広げていた瑞麗が最終的に目的のものを手に入れるという展開でした。
 この『花燃ゆ』でも、どうせ歴史の表舞台に登場しない人物が主人公なのだから、彼等(松陰や松下村塾の塾生達)と競り合ってもしょうがない。最初から負けるに決まっている。
 ならばどうするか? さすがに瑞麗のように全てをかっさらってしまうのも、歴史を題材にしたドラマという前提を根底から引っくり返してしまいますし。

 必要なのは、「歴史のif」を設定することだと思います。
 一例を挙げるならば、松陰の死により塾はどうなるか。あれだけの個性的な面々がいて、久坂玄瑞と高杉晋作などはしょっちゅう衝突していた。
 ならば、つなぎ止めていた人物がいなくなったことで空中分解しても不思議はなかったのではないか。

 描かれている物語では、大体歴史に沿って話が進んでいます。つまり、文がいようがいまいがどうでもよろしい。塾生達は団結して事に臨む。
 しかし、主人公は文です。主人公の存在意義のない物語などそうそう面白くなるわけがない。
 だったら、文が必要であったことにすればいい。

 例えば。
 松陰亡き後、塾生が離散しそうになる。そこで、文が塾の誰かをつかまえてこう言うのです。
 自分は、兄を理解できずにただその死を見送るだけだった。情けない。だから、兄が何を考えていたのか、教えてもらえないか。
 そこから、彼が遺したテキストを元に説明するうちに誰かが、いやそれは違うだろう、などと突っ込みを入れる。そうこうしている内に塾生達が師の思い描いていたことを再確認し、共有し、団結する。
 所詮、文のことなど歴史にそう残っていないのだろうから、あまり重要でないところに「if」を設定してしまえばよろしい。そして、文によりそれが回避された。
 この展開が面白いかどうか、つまり良さの「レベル」については置いておいて、少なくとも主人公の存在に意味がある作品にするという点については最低限必要だと私は思うんですけどね。

 しかしまあぶっちゃけた話、元々無理筋な話ではあるんですけどね。今回の大河ドラマはその誕生経緯からして。
 でもだからと言ってつまらなくてもいいというわけでもないでしょう。いや別にいいか。見るのを強制されているわけじゃなし。
 個人的には、面白くする手は沢山あると思っています。それは、売れっ子の役者を出すとか演出に凝るとかそういう小手先ではなく。
 一番「伸びしろ」があるのは脚本だと思いますね。まあ平たく言うと脚本がダメだということなんですけど。

 でもその辺り、以前の指摘も同様だったように、この手のがつまらないのは脚本が問題だと思うので、それが繰り返されている以上、そこに問題があるという認識はないということで。
 つまり、これからもこの手の題材になったら同じように脚本で「失敗」するということですね。
 ……多分。

創作観: 光琳・漫画・二次創作

 先日、こんな本を読みました。

竹と樹のマンガ文化論 (小学館新書)
竹宮 惠子 内田 樹
小学館
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 著者として名を連ねている竹宮惠子と内田樹の両氏の対談本です。この本の中で特に強調されていて、巻末の「対談を終えて」でも対談の核心として紹介しているのが、「マンガ=オープンソース論」です。

 これは、第二章(この本は全七章)の冒頭で内田氏から提唱されたもので、コンピュータのソフトウェアのオープンソースにも似た、マンガの手法/技術/技法/技巧、まあ本人はそんなに細かく言っていませんが、描き方についてはマンガ家はコピーライトを主張しない、だから加速度的に進化したのだ、という考え方です。「ソフトウェアにも似た」と言ったのは、通常あの世界でオープンソースと言う場合はプログラムのことだからです。
 まあ、この場合登場するのははどちらかというと、コピーライトよりパテントが近いような気がしないでもないですが。
 そして、そのような話から発展し、共同作業的なマインド、更には正に著作権に絡むような同人誌や海賊版の話にまで展開します。そして、「無償の読者の数を増やさなければ、有償読者の数も増えない」というところまで。

 まあ受け手の話については取り敢えずおくとして、作る側の方は一体「どこまで」がよしとされるのか。

 先日、NHK Eテレの『日曜美術館』で、「光琳は生きている~琳派400年・現代作家たちの挑戦~」と題して尾形光琳を特集していました。
 本放送は2015-04-05で、そのときぼんやり見ていたらちょっと気になることを言っている人がいたので、12日の再放送を録画しました。
 それは、光琳が俵屋宗達の風神雷神図を書き写した↓
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風神雷神図屏風 17世紀
俵屋宗達
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風神雷神図屏風 18世紀
尾形光琳
ことについて、現代美術作家の杉本博司氏が語っていたことです。
 ざっと文字起こしすると大体こんな感じです。

nichibi_20150412_3.png
「西洋的な文脈では、その真似をするっていうことは非常にいけないことだっていう風に思われますけども
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日本の場合にはその、巧く師匠の、その、えー至った画境というものを自分なりにこう受け継いで、
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それからまた自分のスタイルを発展していくというのが、ま、日本のその、えー芸能もそうですし、絵もそうですし、
nichibi_20150412_6.png
ま文化そのものの、あの質だと思いますね」


 この前段のナレーションでは、この言葉をこのように総括しています。

「光琳は、書き写すことで、宗達の筆だけでなく、 その精神まで学び取ろうとしたのです。 杉本はそこに、日本美術の神髄が垣間見えると言います」


 まず、このように「書き写す」ことから始まる文化、という結論が語られているのですが、その過程で「精神まで学び取る」「受け継いで」「自分のスタイルを発展していく」などといったことが行なわれているわけです。
 それがそういった文化の本質だし、それはつまり、元となる作品の本質を見るということでもあると思います。

 この言葉が気になったのは、このところ、先日のエントリなどにも表れていますが、二次創作のことが頭にあったからでしょう。
 しかし、この光琳についての話のようなことを所謂こういう文脈での「二次創作」に絡めると、偉大な先人とエロ同人作家を一緒にするなという声が、まるで聴こえてくるようです。

 数年前の都条例の話のときにも何度も書きましたが、どうにもそういう規制をしたがる人は考え方が「合理的」です。
 勿論、ここで鍵かっこで囲ったのもこれまでの主張に絡むことで、日本で言う「合理的」「合理化」などというのは近視眼的な思考停止であり、合理的であることと必ずしも一致しないからです。
 作品についても、「いいもの」だけあればいい、「いいものを作れる人」だけいればいい、あと上の話に絡めると、「有償(カネを払う)読者」だけいればいい、という「合理的」な考え方の人が多いようにしか思えないのですが、果たしてそれで文化は成立するのか?

 まあ端的に言うと、そのような人が、そんなのは必要でないと思うような有象無象が大量にいることで、「場」ができるわけです。

 杉本氏が文化そのものの質と表現したようなやり方、在り方は、歴史が作り上げた一つの合理的な(つまり理に適った)手法なのではないかと思いますし、それが続いたこともその合理性を証明しているように思います。
 現代の考え方でそれが正しいかどうか論じる前に、それが実積を伴っていることをまず認識すべきでしょう。例えば、著作権法がそもそも何のためにあるか(第一条)を考えるときなどに。

創作観: 「女大河」の不調について語る

 こんな記事がありました。

低迷する“女大河”…「花燃ゆ」井上真央は花開くか? 綾瀬「桜」は苦戦…:イザ!
2013.12.18 20:58

 15日に最終回を迎えた女優、綾瀬はるか(28)主演のNHK大河ドラマ「八重の桜」。この日の平均視聴率は16・6%(ビデオリサーチ調べ、関東地区、以下同)と20%を下回り、全50話の期間平均は14・6%となった。初回は21・4%と好調だったが、その後は10%台前半を推移する苦しい展開が続き、結局、初回の視聴率を超えることがないまま終わった。

 記事では、結局「「主人公・八重の知名度が低いのでは?」との声が多く不安視されていたが、結果的にその通りとなった」などと書いてあります。また、

上野樹里(27)主演「江~姫たちの戦国~」(2011年)が、全46話の平均視聴率17・7%とまさかの苦戦。続く松山ケンイチ(28)主演の「平清盛」(12年)は、あえて平安時代に挑んだが、大河ドラマ歴代最低視聴率を更新するなど、不名誉な結果ばかりが目立ってしまった。

ともあります。
 女優の人気がどうこう言っていますが、さて、そんな問題でしょうか。

 このうち、『平清盛』については、初回、つまり正月からで巫女さんだか何だかが大量の矢を射掛けられハリネズミになったのを見てもう殆んど見なくなったので、触れません。だって、他に印象に残っているのは、「あの時代は大気汚染が酷かったんだなぁ」くらいですし。
 というわけで『八重の桜』と『江』を取りあげ、どこが問題だったのかについての意見を書いてみます。

 で、いきなり結論を書くと、脚本がダメだったんだろう、ということです。更に言うと、主人公がダメ。
 これは、ストーリーがどうこうという話ではないし、まして歴史上のその人物がダメという意味では全くありません。あくまで物語の主人公の問題なのですが、この二作ではそのダメさが大きく違います。

 まずは放送順と言うことで『江』から。
 主人公の江は三姉妹の末姫でした。
 三人ともかなり数奇な運命を辿りましたが、上の二人はとても立派な人物ではあってもやはりあの時代の女性の道を歩んでいます。対する江はかなり奔放な存在で、武将たちに伍する活躍をする、というのを描きたかったのでしょう。
 しかし、実際にはまるでダメだった。
 どういうところが問題だったかというと、結局、江が凄かったのではなく単に周りの武将たちが低俗に描かれていて、それで江が活躍するというチート。たまに彼女が威厳めいたものを見せることがあると思えば、それは、信長という虎の威を借りただけのこと。

 戦国の世で戦に反対したのも、「戦はいやじゃ」というだけで結局は何もできない。さすがに、そう発言したことが素晴らしかったなどという話ではないでしょう。
 せめて、まあ史実は史実として、もっと酷いことになる筈だったのを江が動いてあの程度の戦に収めた、などとしてくれればまだよかった。どうせドラマなのだし、記録に残っていないところでどういう脚色をしてもいいでしょうから。

 結局、主人公が凄い、という風に見せかける仕掛けがバレバレで、白けてしまった。
 そんなところが不調の理由だったのではないか、と私は思います。

 対する『八重の桜』。
 こちらは、主人公の人物は悪くなかった。では、それなのに何故主人公のせいなのかというと、つまり、これは江とは逆で、八重はずーっとストーリーの中心に近づけなかったわけです。
 薩長などと会津が戦っていたときにはずっとその中心からはずれたところにいた。会津が城まで攻められて実際に戦場に立つことになっても、それは何かを決める戦ではなく、何かが決まってしまってからの戦でした。

 そのような世が終わり、京都を舞台にして明治の新しい国造りに物語が進んでも、やはり中心で動いていたのは彼女ではありませんでした。
 夫の新島襄の支えになってはいても、彼の口からそのことを語らせる必要があるくらいに。

 結局これらの作品の敗因は、主人公そのものがダメだったり(『江』)、主人公が活躍できなかったり(『八重の桜』)したことだったのではないかと思います。『八重の桜』など、あの時代を会津視点で描くことはそう多くないので、物語としてはとても良い題材だったのではないかと思うのですが。

 では、どうすれば良かったのか。

 『江』の方は、まあつまり、武将をディスって主人公の箔付けにするなどといういかさまでなく、本当に凄い武将たちを描いてそれと渡り合えば良かった。
 以前、『鬼哭街』というゲームの感想を書きましたが、『江』も、武将たちを涛羅や豪軍のようにちゃんと描いて、その上で江が瑞麗のようにすべてをかっさらう話になっていたら、面白かったかも知れません。
 勿論、あんなダークな話にしろと言っているわけではありませんが(笑)。

 『八重の桜』の方は、八重にはすいませんが、明らかに面白くなったであろうやり方を私はずっと思い描いていました。
 それは、彼女の兄の山本覚馬を主人公に据えることです。

 覚馬であればずっと舞台の中心付近に居続けることができましたし、途中で失明するという(本人には悪いですが)ドラマ性もありますし、後半はそのハンデをものともしない勢いで日本を動かしてきました。
 冒頭で引用した記事で知名度の話が出てきましたが、覚馬もそう誰でも知っているような人物とは言えないでしょう。しかし、舞台(幕末から明治)と視点(会津から見た歴史)をそのままにして、主人公を山本覚馬にするだけで、あのドラマはまるで違う成績を残せたのではないかと私は思います。そして、知らない人には、会津側にこんなに凄い人がいたのかという驚きを残したでしょう。
 私も「知らない人」でしたし、まさにそういう感想を懐いていました。
 そういう意味では、上記記事中にある「被災地へのエールと合わせて、「これまでとは違う視点から動乱の時代を描く、というもくろみ」をそのまま達成できた可能性さえあるかと思います。

 思えば、先日「『半沢直樹』と『メイドインジャパン』」というエントリでNHKのドラマ『メイドインジャパン』について触れましたっけ。
 途中までの展開で期待された日中の企業の打打発止は単なる私怨とホームドラマになってしまいました。
 見てませんけど多分『太陽の罠』も同じことになっている、つまり設定を知ったときに私が興味を持ったパテントトロールのことなど、単なる舞台装置の一つになってしまっているのではないかと想像したりするのですが。

 このようなドラマの大山鳴動して鼠一匹的なところと、大河ドラマの不調。
 何やら似た臭いを感じますね。

創作観: 『半沢直樹』と『メイドインジャパン』

 今日、新聞のテレビ欄を見たら何やらNHKの新作ドラマに面白そうなのがありました。
 どうやら、アメリカのパテントトロールと日本のメーカーとの攻防らしいです。
 見てみようかなと思って、同じく新聞の番組紹介のところを読んで、なーんだと思って結局見るのをやめました。なのでこの作品についての話はなし。

 しかし、これで思い出したことがあります。それが、本エントリのタイトルになっている二作品です。
 前者については今年はかなり話題になったし、私も途中、一話か二話くらい見て、ああなるほどこれなら、と思った記憶があります。
 後者については、始まる前にちょっと触れたことがありました。で、結局ドラマの感想については「面倒になってスルー」したわけですが。
 その理由は、『太陽の罠』を、今回は見る前にスルーした理由と同じと言っていいでしょう。

 『半沢直樹』は、ある意味ファンタジーではありますが、そのドラマとしての方向性は一定だった、と思います。しかし『メイドインジャパン』は、社会問題にもなっていると言える技術者、そして技術の流出を扱っていた……割に途中からgdgdで、何だかホームドラマみたいになって何やらわけのわからない方向にブレまくり、わけのわからない内に終わってしまいました。

 結局これは、以前からよく使っていた例をちょっと言い回しを変えて使ってみると、密室から犯人がどうやって抜け出したかという推理小説を読んでいたら、実は犯人はエスパーでした、みたいなのと同じでしょう。
 そもそもこの作品は一体何なのか。
 『半沢直樹』のかなりぶっとんだところと『メイドインジャパン』のドキュメンタリーみたいなところは、かなり違います。しかし、それとは別次元のところで、かなり近いものがありました。少なくとも、『メイドインジャパン』の途中までは。

 それも、その『メイドインジャパン』が変遷していった姿が、『半沢直樹』でばっさばっさと切り捨てられた部分とよく似たもので構成されていたわけです。結果、扱われたテーマ・問題点は特定個人の怨恨に矮小化され、社会問題とかどうとかはどこかへ行ってしまいました。

 このNHKドラマは、まあこの問題の答えを指し示すのは無理にしても、問題を意識させる、社会問題として認識させる役割があったのではないかと思います。しかし現実には、これが何か話題になったという印象は全く残っていません。まあ、私が興味をなくしてしまったせいかも知れませんが。
 それは、まるでその問題を視聴者に認識させないようにどこかから圧力がかかったかのような見事さです(陰謀論(笑))。

 それが一体何を描くものなのか。
 それについては、いくつかの次元があると思います。その中にもやはり変わってはならないものというのはあって、作品が存在する目的、理由みたいなものは常に押えておかないといけないのではないでしょうか。
 まあそういう意味では、『太陽の罠』はテーマの割に最初から「違う」というのがわかる分いいのかもしれませんが。

創作観: アニメ『デート・ア・ライブ』のイマイチ感について

 今期(2013年春期)始まったアニメ『デート・ア・ライブ』ですが、個人的にどうにも、あまり話に乗れません。
 世界に危機を招いている精霊とデートしてデレさせ、危機を回避する?
 …………。
 アホか。

 ところで、まあ例を挙げようと思ってもすぐに出てきませんが、これよりもずっとアホらしい設定の作品を、私はいくつも楽しんできた筈。では何故、本作ではそのアホらしい設定に乗って楽しむことができないのか。

 以前何度か、作品の世界観というかルールというか、そういうものの話をしたことがあります。その主張を簡単に繰り返せば、創作物の世界ではどんなことでもありなので、何ができないかを決めておき、早期にそれを提示しておく必要がある、というものです。
 そこで使った例をまた使ってみると、推理小説の犯人が密室からテレポーテーションで逃げてはならない、とか。

 そのときは、その世界の設定の話と描写の仕方の話が少しごっちゃになっていたのですが、思えばその本質は後者であり、世界の成り立ちや決まりごとに限った話ではない、と思います。
 今回の『デート・ア・ライブ』で言えば、何故作戦を決めた彼らは、士道がデートして精霊をデレさせればいいという結論に至ったのか、それがわからなすぎる。
 どうやら、そこには色々と事情があるようです。例えばWikipediaなどを見てみると。
 しかし、これは創作物の世界。どんな理由も、それこそ理由などないということもあり得るわけで、こちらとしては受け止め方を決めかねてしまいます。

 とすると、とりあえずはデフォルトの感じ方、つまり現実的な目で見てしまいますね。
 結果どうなるかというと、……「アホらしい」という印象になってしまう。

 実際には読んでいないのでわかりませんが、恐らく、原作小説ではそうでもないのではないでしょうか。
 また、アニメでも、その「理由」となりそうなカットが一つでもあると問題なかったかも知れません。主人公の士道に何かあるのはまあデフォルトで伝わるとして、それがデートにつながるものである描写が何かあれば。または、単に作中で有力な登場人物がギャルゲー好きであるというだけでもいい。更にはそれが見せかけだけの嘘の理由であっても。

 ところで、書いているうちにこういうことを以前にも書いたのを思い出しました。「彼等は何に抗うのか」というエントリで、主人公達が乗り越えなければいけない何かが、単に主人公達が乗り越えるために存在している、そんな風に作為的に思えてしまうという話です。
 思えば、上記のWikipediaによると本作は「「秘密組織のメンバーが大真面目にギャルゲーをやっていたら」をコンセプトにして」いるとのことで、まずそれが「ありき」になってしまうのは当然なのかも知れませんが、そこでそうなっている理由についての説明が、基本すぎて疎かになってしまった、のかも?

 週一回放送のTVアニメという制作の形態上、ちょっと、多分シリーズ構成的に、何かが抜けていた。本作から私が受ける「イマイチ感」の理由はその辺りにありそうに思いますし、逆に言えば、それは多分本作に特有の話ではないのないでしょうか。
 ラノベなどに代表される作品世界では、突飛さというのが一つのウリである場合も多く、ならばそれをどうやって読者や視聴者に受け入れさせるか、それは重要なテクニックなのでは。例えば今期のアニメで言えば、『はたらく魔王さま!』なんてのはかなりぶっとんだ状況で物語が進行するわけですが、そうなるまでの事情について、飛躍しすぎず謎も残しつつ、一話でちゃんと描けていたと思っています。

 最初の段階で一足飛びの展開に置いて行かれてしまうと、結局、話そのものに乗っかることができなくなる。
 導入の描写がいかに大切か、という一つの例と言えましょう。

創作観: 物語における「絶望」の描き方

 先日、アニメの感想で、『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』の真涼と『魔法少女まどか☆マギカ』のほむらに似ているところがあると書きました。
 ただ、それについてはただし書きを入れていて、二人の間には「薔薇と虞美人草」のような違いがある、としました。その原典はこの作品です。
さようならアルルカン (集英社文庫―コバルトシリーズ 52B)さようならアルルカン (集英社文庫―コバルトシリーズ 52B)
(1979/12/10)
氷室 冴子

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 この本の表題作の『さようならアルルカン』には、三人の特異なものを持つ、もしくは非凡な、高校生の少年と少女が主な登場人物として描かれています。主人公の少女も、決して平凡とは言えないでしょう。
 主人公の「私」(小田桐)はある日高校の図書室で、同学年の少年の宇野緒美と出会い、親しくなります。そして、彼が「私」と自分の共通点を表現したときの比喩が、薔薇と虞美人草でした。
 二人はいずれも『仮面の人生』を送ってきた。「私」は薔薇のように人を近づけず孤独を守っている。緒美は風の吹くままに揺れる虞美人草である。

 まあ、ほむらが薔薇はいいとしても、真涼が虞美人草はどうかという気もしますが、相手は限られていても一見まともに人付き合いしているということで。

 ところでそうすると、『さようならアルルカン』には、さやかも登場していることになります。
 真っ直ぐで「積極的」で正義感に溢れ、しかし絶望に敗けてしまった、柳沢真琴です。

 彼女を捜した。
 何をするというあてもなく、ただ彼女の姿を見て安心したかった。そのとき私は、彼女がこなごなに砕けてそこいらへんに散らばっているのではないか、と真剣に思ったほどだった。

(略)ふふ……ふ……長かったわねえ……十年ね。……十年も……私、むだに泣いてきたのね……いつか……いつかわかってもらえる……って……ふふ……」

 それが始まり──。
 その次の言葉を彼女がいうまでもなく、私にはわかっていた。きょうで終わりだ、と。
 彼女は崩壊した。

 その美しい輝きで「私」を魅了した真琴は、「自らにnot to beを命ずる道化者[アルルカン]になって」しまったのでした。
 それが中学二年の時。やがて「私」は真琴に意外な形で再会することになります。

 古今の様々な物語で、人は絶望して来ました。が、大概はそこから不屈の闘志で立ち上がったり、凄絶な死を選んだり、自らを守るために退行したり、あるいは翻って犯罪に手を染めたりしているように思います。
 考えてみれば、長く愛される物語というのはやはりそこに何か得るものがあったりするわけで、畢竟、絶望してそのまま潰れてしまう人物など残りにくいのでしょう。いるかも知れませんが、私などは文学作品を読みあさっているわけでもないので、ダイジェスト版の知識になると、そういう人物は省かれてしまうかも。

 しかし、私の思う「絶望」はやはり、「もういいや」というものなんですよね。最悪の形であっても行動したり、まして立ち直ったりするなどは何か違う。
 真琴の場合は、まだアルルカンであることを選びもしたし、「私」の手紙という鍵もありました。でも、方向性としてはやはり「これ」なんです。
 もう投げ出してしまい、「きょうで終わり」、と。

 それが表れているのが、以前書いた小説の『碧の森の住人たち』の譲の台詞です。

「譲さん! そんなことしたら、譲さんも捕まっちゃうでしょ!」
「私、もうね、そういうの、わりとどうでもいいのよ」
「──!」

 もう、どうでもいい。そのことを告げるのすらどうでもいいことで、自分の言葉でなくネットスラングですましてしまう。

 その表現の極致が、先に述べた『魔法少女まどか☆マギカ』の、さやかの魔女化のシーンだと思います。それを見たときの感想からちょっと引用します。

 酷いとか、怒るとか、恨むとか、そういうのは全てもうどうでもよくなってしまって、ただ、ああ、もういいや、と。
 私がそれを哀しいと感じたのは第三者が見ているからであって、そこには、哀しみすらないのではないでしょうか。
 それこそが、「心の死」なのかも知れません。

 魔女は、呪いで人を死に至らしめてきたようです。
 でもそれは、憎いとか、そういう、たとえ後ろ向きでも積極的な気持ちではなく、ただ、もういいや、何もかもどうでもいい、という気持ちに誘い込むものなのではないでしょうか。


 このシーンでさやかは「別にもう、どうでもよくなっちゃったからね」と言っていました。この作品では、そのとき一体何が起きるのか。
 アニメ作品なので、映像があります。再度、上記の感想のエントリから。
madokamagica8_dying1.pngmadokamagica8_dying2.png
madokamagica8_dying3.pngmadokamagica8_dying4.png

 これは多分、さやかの最も大切な想い出です。このとき、そういった、彼女を形作っていたものが崩壊していくのです。ここで描かれたのは、さやかの心のバラバラ死体とでも言うべきものかも知れません。

 ここでは、魔女化という現実の世界にはないことが起きているのですが、さて、それではこれは全くの架空の出来事なのか。何となく、これは現実に起きていることのようが気がします。
 これが私にとって「絶望」の描写としてとても印象深いものになったのは、やはり『さようならアルルカン』より得た印象と同質のものが行き着くところまで行った描写なのだ、ということなのだと思うのです。

創作観: 多馬しすてむさんをご紹介

 先日書いたエントリにトラックバックをいただいたことで知ったのですが、こういうブログがあります。


 最初のエントリにある紹介文から引用すると、

このサークルは同人ゲームの作製ではなくリリース前の作品の動作確認、不具合の検証などに特化したサークルです(略)私達は可能な限りの検証作業を行い不具合を見つけ出し開発元に手順や発生条件を報告するのが主な仕事ととなります。

とあります。代表はSUNAO KAWAHARAさん。プロフィールのところでは、自主制作CDサウンド確認、イベント運営支援などについても触れられていますね。

 これの前に書いた同人誌の感想エントリで、細かいところの突っ込みはしませんでしたが(内容の感想なので(笑))いくつか気になるところがあったりしました。
 そこで、多馬しすてむさんのことを思い出したのです。知ったばかりのところを思い出したとか言うのも変ではありますが(笑)。

 二年くらい前、都条例の改正が問題になっていた頃のこと、同人について幾つか考えていたことがありました。
 それについてはその後かなり別の方向に発展していてその内どこかで発表したいと思っているのですが、その中に、編集などについてのこともありました。
 何かというと、出版社を通しての出版では良くも悪くも編集というものを通すことになるわけですが、その「良い」部分だけを切り出して同人活動に組み込めないか、と思ったのです。

 というか実際にはこの発想、まずは漫画の描き方から出発しています。絵と物語、両方できる人しか漫画が作れないというのは人材を埋もれさせることにならないか、ということです。物語を作れるけど、小説とかよりも漫画の形にしたい人、とか。
 そうして、マッチングサービスみたいなことができないかとか思ったのですが、そうすると、編集に相当する部分も同じように組み込めるかな、と。校正とか校閲とか資料集めとかアイデアの提供とか。そして、同人なので、過度の干渉が発生しないように、どこまで踏み込むかについてメニューを用意して最初に決めておく、みたいな。

 多馬しすてむさんが手がけているのも、この発想に近いところと言えます(システムではなく実務の方)。まあ、同人誌というか同人ゲームが主体のようですが、テキストについても含まれているので。
 実際のところこういうことって、できる、かつやろうとする人って中々いてくれなくて、難しいと思うんです。重要な作業なんですけどね。

 というわけで、ちょっとご紹介してみました。
 まあ、私が知らないだけで他にもいらっしゃるのかも知れませんけど。
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水響俊二

Author:水響俊二
水響 俊二 [MIZUKI Shunji]

暫定的に、18禁作品の感想などは裏サイトで書いています。
   

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