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読んだ: 『PC遠隔操作事件』感想

 世間を騒がせたという意味では大事件だった所謂「PC遠隔操作事件」の取材なんかをまとめた本です。

PC遠隔操作事件
PC遠隔操作事件
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神保 哲生
光文社
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 それとはあまり関係ない個人的な話ですが、この夏は何故かちょっとITづいてました。結局手を入れる必要はなかったのですがLinuxのカーネルいじったり、6年くらい前に書いたCのプログラムを手直ししたり、ラノベ『なれる!SE』が完結したり、購読しているメルマガ/ブロマガでITの話してたり。
 中には、今回の本に関係あることも。部屋の掃除をしてたら、5年前(2012年10月29日)の読売新聞でPC遠隔操作事件の誤認逮捕について検証した記事の切り抜き、というか1ページまるごとですけど出てきたり。

 まあそれはさておき本の感想です。
 まず表紙ですが、……猫ですね。この事件、猫(のまネコ)に始まり(江の島の)猫が締めくくったというかそんな面があります。多分、そういう意味でこうしたのでしょう。
 当時私もそれなりに興味を持って追い掛けていたわけですが、その範囲でもあり事件が事件として進展していた頃の、公判の前くらいまでのことは、分量としては概ね1/3くらいですね。裁判関連のことがこれも1/3くらい。残り1/3くらいは分析、という感じ。

 で、読んでの感想ですが、この「PC遠隔操作事件」。主役は警察だったように思います。

 一連の「事件」として最初に発生したのが横浜のCSRF事件ですが、現象面はともかく意味的には、これはまだ「PC遠隔操作事件」ではなかった。片山(本文にならい原則として敬称を略します)はこの時、身を隠しただけのつもりだったようです。
 しかし、そこでまさかの誤認逮捕が起きてしまった。その「犯人」は犯行の動機や、未公開の情報まで「自白」しています。
 片山はそれでPCを遠隔操作する方向に動き始めるのであって、彼のいたずらを「PC遠隔操作事件」に方向付けたのはこの神奈川県警だったわけです。
 そして曇取山。埋められたUSBメモリを警察が発見できなかったことで彼の計画は狂ってしまい、想定外の対処をすることに。で江の島の猫が登場するのですが、それが逮捕につながることになったわけで。

 結局、警察のミスが全てをドライブしていたと言っても過言でないくらいですね。

 しかも、逮捕後のことはあまりよく知らなかったし、もう色々と忘れてしまったことも多いのですが、警察は取り調べができてなかったんですね。録画等の記録を拒否したことで。
 著者が彼にした質問(p257)くらいで狼狽えるような有り様だったのだから、きちんと取り調べができていればそこでボロを出した可能性は確かに高い。つまり、裁判をこじらせたのも警察だった。

 判決も、主役は警察みたいです。ただこれは、ちょっと可哀想とも言えるものですけど。
 判決では、「高度な知識・技術を最大限に駆使し」たこと等も含め「サイバー犯罪の中でも悪質」としているらしい(p397)。しかし、そこで指摘されていることを見るに、どの辺りがそんなに高度なのか、と。
 そういうことを思いながら読むとこの判決、警察にとってその程度のことがそんなに高度だったのかとかいうことになり、哀れになってきます。もうやめて、警察のライフはゼロよ!

 まあある意味で煽り耐性の低さが暴走させたというようにも言えますが、耐性の低さには、感受性の高さという面もあると思うんですよ。つまり、同じ刺激でもこういう場合には特に、みたいなのが。
 この事件でそれが増幅された理由を考えてみると、ITがキーワードかな。
 例えば、ある犯罪が起きたとき。犯人がスポーツマンだったら、「スポーツやってるのにどうして」という感覚が多くの場合働くものです。これがパソコンオタクだったりすると「やっぱり」となる。そして、こういう感覚は特に、警察のような組織では強いように思いますね。警察はITが苦手なだけでなく、嫌っているし蔑視もしている。「違う世界」(p510)というのは「下」ということです。
 日本で公的な機関がハッキングのイベントをやったりセキュリティ関連のボランティアを募集したりすると、大概誰かが「ブラックリストに載るんじゃね?」とか突っ込みますし。

 ただ、この4人の誤認逮捕の被害者を出した事件からもう5年程は経つわけで、色々と意識も変ってきているんではないかなとは思います。
 思いますが、冤罪の恐怖で社会不安を引き起こしている状況は今でも健在(?)だし、これは警察の話ではありませんが、冒頭に書いたメルマガでは、未だに「偉い人」にはITのことなんか些事だという例が出ています。たとえそれが安全保障の問題であっても。
 或いは、私はいつもメディアについて批判していますが、メディアは特にITが嫌いですよね。わからなくてもしかたない、わからなくてもいい、わからなくて当然、だからそんなことやってるヤツはどっかおかしい。当然、間違った記事を書くのも許される範囲のこと。そういえば「iesys.exe」を「アイシス」と呼び始めたのもどっかのテレビ局らしいとこの本に書いてありますね(p334)。まーそんなことじゃないかと思ってましたが。
 またビジネスの世界でも、海外の企業とトップ会談をして、ITのことだから持ち帰って部下に相談しますなんてことがよくあるらしいし? IT系の大企業であっても。

 ともあれ、今はこの事件はあまりサイバー犯罪という印象がないです。勿論、コンピュータを使った様々なイベントがありましたが、こうして後から振り返ってみると、それは本質ではなかった。今だから言えるわけですが、結局ITは脇役だった。
 片山と警察と司法とメディアが繰り広げた、どたばた騒ぎ。レベルはあまり高くなかった。色んな意味で。
 そして、片山がどうかはわかりませんがその他の主要な役者は、さほど変っているように思えない。

 そういう意味では、似たようなことが起きる素地はまだまだ残っているように感じますね。

読んだ: 『純粋娯楽創作理論 VOL.2』読後メモ

 VOL.1に続いて第二章収録のVOL.2についても、読後メモということで思ったこと書いたりちょっと頭の整理したりしてみました。

純粋娯楽創作理論 第二章・キャラクター分類指標
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 第一章を収録したVOL.1では、面白さとは予想外のことが起きることと定義されています……と言うと多分ちょっとおかしくて、作中で予想外のことが起きたときの「快」を面白さとしているという方が近いですかね。
 で、物語を動かすのはまあ多分殆んどの場合で人であるわけで、ならば面白くしてくれる登場人物について分析しようってのがこの第二章ってことでしょうか。……と言うと多分ちょっとおかしくて、キャラ(キャラクター)と言うべきでしょうね。人と書きましたがそれはホモ・サピエンスに限らないので。
 というわけで本書では、なんというかそういうキャラのタイプを列挙してる、という感じかな。

 さて、物語を面白くしてくれるキャラ=予想外の展開をもたらしてくれるキャラ≒予想外のことをしてくれるキャラなわけですが、本書ではそれを「馬鹿」と表現しています。第十項冒頭で「天才が馬鹿のバリエーションとして分類されているのは、単語の意味からすると矛盾に思われるかもしれません。」とありますが、それは多分そもそも「馬鹿」という命名がおかしいからだと思います。第二項に「「馬鹿」と呼称され」という表現がありますが、これはこうした分類のために使われて来た表現なのでしょうか。なら仕方ないですけど。
 実際には、規格外の人を表す言葉があれば多分それが適切ですね。規格外の人は非常識なことをしてくれるので。

 で、規格外、つまり機能や性能が常人、というよりも読者から掛け離れている人物が本書で言うところの「馬鹿」ということになります。
 例えば持っている情報。超越している、つまり沢山持っているのが天才パターンですね。天才は通常、知識も豊富ですから。違う情報を持っているのが旅行者や異邦人など、少ないのが世間知らずや狭義の馬鹿とか。
 論理とかだと、超越しているのが天才、違う(論理的に間違っている)のが狭義の馬鹿や破綻しているタイプの狂人。ただ、価値観が異るために狂人と表現される場合も。
 体力などの物理的な能力なら、超越しているのがスポーツエリートだったり、違うのが超能力社とか神とか。
 他にもありますが(途中出てきた価値観とか)、こんな感じでしょうか。持っている能力それぞれについて、機能や性能を縦軸や横軸にしてどっち方向に外れているのかを考えると体系が作れそうですね。

 さて、どうもよくわからないのですがこの第二章、途中の第七項で感情移入について触れています。うーん、これがここにある理由って……。
 まあそれはおいとくとして、次は第三章。構成の話ですか。
 娯楽の原理、素材に続いて組み立て方ということですかね。

読んだ: 『純粋娯楽創作理論 VOL.1』読後メモ

 今回書いているのはまさに感想というよりも単なるメモです。まあ読みながら思った事という意味では感想と言えなくもないですけど。ただ、脈絡があるわけでもなくいくつかの項目にコメントしてるだけなので、ねぇ。
 ところでこの本、本来なら創作、特に小説の執筆の参考にするためのもので、私としてはまあそういう予定はないんですけど。ちゃんとしたものを書くという意味では。なのでこの場合、読むこと自体が一種の娯楽とも言える?
 公開前に読み返してみたら、なんか文句言ってばかりみたいになってますね。別に批判的立場だとか異論があるとかそういう意識は全然なくて、ちょっと拡張したいなと感じた部分を書いてみただけなんですけど。

純粋娯楽創作理論 第一章・面白さの基礎原理
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 というわけで、まずは一つ目のコメント。挙げる中でも最もどうでもいい話。「第二項 面白さの定義」の「原則その14」のちょっと前辺りについてです。

書き手が決めなければいけないのは、登場するキャラクターと「××に負けない!」と宣言させるための××の中身だけだからです。

 いやいや、どのように負けるかってのがありますよね(笑)?というかそれがメインですよね?

 次は、「第三項 面白さと商業物」(括弧内は省略)の「補足その1〜2」の辺り。作品の広告とかそういうところで内容と違うことが書いてあった場合、予想外のことでも面白くないだろ、という話。
 冒頭の導入じゃないですが、予測→予想外という流れを物語の中でなく購入(などの受け手の現実世界でのこと)で引き起こすのはまさに違う次元の話なので、同列に論じないでそういう言い方をする方がいいのでは。

 同じく「第三項」の『奥様は魔女』の邦題や導入の話の辺りですが、タイトルの予想外は世界の設定で起きていることであり、物語の中の予想外はそれを起点にして起きるものですよね。
 と思ったら「補則その3」に連鎖構造という表現が出てきていますが、これもちょっと違う気が。作中の予想外の事態は、連鎖というよりもそれぞれが設定という起点から発しているもので、連鎖しているものがあるとしてもこれもまた次元が違う話でしょう。
 ところで、『奥様は魔女』のタイトルと導入の辺りの話で思ったのですが、これはむしろ予測を制限することで予測を促す形式ですか。奥様の時点では発散しすぎる。魔女のところで、かなり制限されることにより具体性が増すと共に、通常ない組み合わせであるが故に予測をしたくなる。そういうタイトルになっているわけですね。

 ちょっと飛んで「第五項 慣れと必然性」では、「チャート2」として後で必然性を説明する構造が登場しますが、ここで「伏線」について触れてくれたらなぁと思いました。(うまくすれば)後で必然性に気付くということですし。

 また飛んで「補記」のリアリティの話。
 これはとっても「なんとなーく」で感覚的な話ですが、リアリティを気にする人というのは、自然科学的な事よりも人間の「らしさ」を重視するような気がします。だから、ガルパンよりもガンダムにリアリティを感じる人の方が実際に多いんじゃないかなー、かなー、なー……。
 多分、「人間」が物語作りの共通項だからじゃないかなと思うんですがどうでしょう。

 本の中に出てくる「原則」「補則」などには、通し番号が振ってあります。でも、それらはそれぞれ独立かつ同等ってわけでもないですよね。「従って」で結び付いてるような項もあるし。数が多くなり過ぎてちょっとわかりづらいかも。グループ化できないかな。
 なんとなくですが、この本以外の所での話も含めてみると、書くときに次元を落とす傾向があるような。二次元を一次元に(この通し番号とか)、三次元を二次元に(ベン図の話とか)、って感じで。

 感情移入についてかなりはっきりと否定していますが、そもそも「面白さ」の定義がどうか、ですね。それを予測→予想外と定義してしまえばそれまでだし、「知的快」という面白さに予想外とか願望充足とか(あまり知的でないか(笑))謎解きとか色々あるとしてしまえばまた違った立場になる。まあ、それを踏まえた上で前者としているのかもですけど。

 さて、このシリーズは第三章まで購入してあります。第一章の冒頭に三章構成の予定とありますが、いきなり二章冒頭に予定が狂ったみたいなことが書いてあったのでどうかと思いましたが、ちらっと見た感じ、三章でちゃんと終わったっぽい?

読んだ: 『生物はウイルスが進化させた』感想と思ったこと

 「感想」と「思ったこと」ってどう違うんだよ(笑)。


 まあ、感想というのはこの本について、思ったことというのはその内容を離れて思いを馳せたこと、という風に解釈していただければ。

 先日に引き続いてブルーバックスですが、あちらが壮大な宇宙の過去から未来までの話であるのに対して、こちらはミクロな話です。とは言っても、科学の話ではそんなに極微ってわけでもないですけど。しかもメインの話題は「巨大」ウイルス。

 本書の内容は、まずはその巨大ウイルスとはなんぞや?ってところから始まって、その巨大ウイルスが感染した細胞の中で一体どんなことが起きているのか、その仕組みは、という話につながります。
 その過程で特に重要なのが、所謂「ウイルス工場」。細胞の中でウイルスが複製を作成する場となっている構造のことですが、何やら「何かに似ているぞ?」と思わせる文章になっています。そしてそういう個所は他にも。

 そして、筆者も言っているようにこの本には仮説段階のことが沢山書かれているのですが、最後の第4章「ゆらぐ生命観」ではそれを一気に押し進めて、そもそも細胞核ってウイルス工場が元になってるんでは?とか、通常我々がウイルスと呼んでいるもの(文中では「ウイルス粒子」として区別していますが)は実はウイルスにしてみれば生殖細胞みたいなもんでは?とか、そういう話につながります。

 定説になっているわけではないとは言え、そういう風に考えるのはとても自然に思えてくるし、第4章の章タイトルである「ゆらぐ生命観」というのはまさに当を得ている感じです。実際、遺伝子の水平移動とか、ウイルスが細胞の中でやっていることを見ていると、細胞があってウイルスが感染してきて、というような見方が段々不自然に思えてきます。自と他者をそんなにちゃんとわけられるのか、と。
 まあ、そういう観点は、本書で言うところの「生命観」とはちょっとずれていると思いますけど。

 それにしてもこういう、それまでの概念を覆されるような現象とかそれっぽく思える仮説とかいったものって、ちょっとわくわくします。前述の先日感想を書いた本にもあったように、新しい説がより正しいとも必ずしも言えないとは言え、です。

 さて。
 ここから「思ったこと」に突入ですが、特に主たるテーマはありません。思いつくまま。

 最近やっと平常に戻ってきましたが、このところ何度か書いているように、この春は異常に忙しかったのでとても疲れました。
 それでちょっと気付いたのですが、また他の人はどうか知りませんが、疲れている時って何故か、無機質なものを求めるようになりますね。例えば宇宙をテーマにした、それも知的生命体の話とか全く出てこない本を読みたくなるとか。
 なんとなく逆のようにも感じるのでちょっと不思議。あと何故か変な本を思い出しました。

 それから、こういうテーマの本って夢があるなと感じます。
 どうもね、人文系とか社会系の話に触れていると、どんどん世の中が退化しているように感じてしまって。何より、こうであるといいながこうあるべきになってこうであるに違いないにまで至る、その全知全能感は一体どこから出てくるのか。
 その点、まあ人の唱える説というものにはある意味同様の点がありますが、その先には人の意思なんぞ及ばないものがありますからね。

 最後にとんでもなくどうでもいい話ですが。
 ミミウイルスってまさかミミの語源……なんてことはないですよねやっぱ。

読んだ: 『宇宙に「終わり」はあるのか』感想

 なんとなく、最近読んでる本ってブルーバックスなんですよねー。やはり何だかんだ言ってこういう世界が一番落ち着く。
 その中の一冊。


 ブルーバックスっぽいネタの中でも、やはり宇宙ってのは私には別格。そもそも私が転んだ(?)のは『宇宙のひみつ』でしたし。

 ところで、こういうのはガチのお勉強ではなく読み物なので、レベルの設定がどの辺りにあるのかってのが重要です。つまり自分のレベルとの相性ということになるので、人それぞれってことになりますか。
 この本は、そういう意味でとても丁度良かった感じです。そうだよねーって話の中に、あ、今はそう考えられてるんだとか、なるほど気付かなかったけど確かにそうだとか、そういうのが沢山あって。
 なので、私には丁度良かったわけですが、正に人それぞれなんですけど。

 レベルについては、相性だけでなく書き方というのもありますけどね。
 中には、そんなこと一般向けの新聞でも注意書き付けないよ……と思ってたら何ちゃら方程式を憶えてること前提ってそんなの忘れたよ、みたいな感じで一冊の中でも想定されている読者のレベルがちぐはぐなのってたまにありますし。

 ところで、最初はこの本も実はそんなに期待していなかったんです。そもそも、そんな先(「10の100乗年」後とか)のことなんかどんだけの確度で話せるのよって感じで。
 でも、この本はそれは勿論承知の上で、そうなりそうな未来への展開を軸に、その想定を導く研究について紹介しているという形になってるんですね。関係ないですけど、最近読んだ別のブルーバックスで読んだものもさらっと出てきたりして。巨大ブラックホールが登場したり、恒星のスペクトル型のアルファベットの順番がでたらめな件とか。

 非常に大雑把に言うと、第I部「過去編」, 第II部「未来編」の二部構成になっているんですが、やはり「なるほど」が多いのは未来編でしょうか。いや過去編も面白いんですけど。殆んど水素ばっかりの恒星が炭素や酸素なんかを含む恒星と随分違う成長をすることやその理由(強い放射冷却)とか。そういえば、天文の世界の風習ではヘリウムよりも重い物質を「金属」と呼ぶってのも最近読んだ本で知ったばかりでしたっけ。

 そして未来編。
 ここで想定されている宇宙は、膨張がどんどん加速していくことになっています。実は、すでに(60億年くらい前から)宇宙の膨張は加速に転じているらしいですね。
 例えば、銀河の合体のような動きも合わせてみると、やがて観測できる宇宙は、自分達の銀河だけになってしまうということが想定されています。これ、遠くなって技術的に困難になるとかではなく、遠くの銀河は遠ざかる速度が光速を超えてしまって見ることが原理的に不可能になっちゃうんですね。
 また、ビッグバンのような宇宙の始まりに関する情報も失われてしまって、仮にそこに知的生命体がいたとしても、宇宙の過去を知るための証拠が最早残されていない。

 しかし、そんなのはまだまだまだまだ序の口。そもそも今我々が存在し見ているこの宇宙の様子も極めて過渡的なものであり、熱力学的なこととか量子論的なことから物質やブラックホールなどでさえも失われていく、そんな未来が想定として描かれていて。いやもう、ここまで徹底的に喪われていくのかと。
 確からしいとは言え確実とまでは言えない未来の状況なのに、学術的な面白さとは別に、読んでて無力感とか虚無感に襲われます。上記の光速を超えちゃう例みたいに、頑張ってどうにかなる問題じゃないことばかりですから。

 そういう感想はおいとくとしても、それなりに知っていることのそれぞれちょっとずつ先を示してくれるという点で、とても読んでて楽しかったです。
 まあ、上に書いたように「私には」ですけど。

読んだ: 『イノベーションはなぜ途絶えたか』感想

 日本の経済を支える力について、絶望と希望と絶望に襲われる本ですね。


 いつも言っていることをちょっと違った言い回しで表現すれば、日本は頭から腐っているとでもいう感じになりますか。この本を読むと、本当にそうだなというのが実データを元にして突きつけられる気分です。
 しかし、このような分析ができる人がいるという、またこのような本が登場したという希望もあります。
 が、ここに書かれているようなことや姿勢が広く理解されることは多分ないだろうという暗澹たる気持ちもまたやってきます。

 この本にはまた内容の他にも興味深いことがあって、イノベーションについてここに書かれているような現状があってそれについてこのような対策を打てば……というレイヤーの上に二重構造のように、この本自体が一つの社会的なイノベーションであるという風にも感じられます。
 尤も、そのようであることそのものが現状に潜む問題点であるとも言えますけど。

 さて、序章に各章の概要とともに全体の構成が書いてありますが、私なりの解釈でちょっと別の表現をしてみることにします。
 その序章はまず問題提起で、現代の日本の状況と、それに対する危機感から著者がどんなことを始めたかという話。
 第一章は、シャープを例にとって日本の凋落がどのように進んだかを示しています。確かに、あの会社の歴史は日本の近代を体現しているかのようでもあります。
 第二章は、では一体どのようなところが悪いのかという話。アメリカで80年代初頭に始まったSBIR(スモール・ビジネス・イノベーション開発法)とSBIRプログラムがいかにアメリカのサイエンス型産業を変えたか、そしてそれをマネた日本の制度がいかに有害無益だったかを例に取ることで、つまり表面上同じような制度の筈なのにどうしてそんなに違うのかを比較することで、日本の社会に根を張る問題点をあぶり出します。
 第三章では、ではイノベーションとはどんなものでどのように生まれるものなのかということに視点が移りますが、ここでも上記のような二重構造が見えるような気がします。なぜイノベーションを起こせなくなっているのか、そしてなぜそのような状況になるのか。相似形の構造が見えるように思えるのは気のせいでしょうか。
 第四章では、一般論としてのイノベーションとな何かという話とは別に、特に現代の日本において強く影響している、固有の問題と言っても過言でないいわば追加で考慮しなければいけないことが書いてあります。つまり、現代社会では益々重要になってきている様々な技術が自然科学に依拠していること、然るに日本ではむしろそれがあまり顧られなくなってきていること。
 第五章にあるのは、著者による「対策」です。そして併せて、科学というものの役割、意味、認識、そういったものに対する、提案というには切望のようにも見える提言も。

 第二章に出てくるアメリカのSBIRは、さすがに一つの章に押し込めただけあって概要しか書いてありませんが、その出発点と効果を見るに、極めて緻密で周到な制度であるように思われます。現状(70年代当時)の分析、問題点の見極め、対策の網羅性。まあ平たく言うと、何が問題でどのようにすればどのようになって改善されるのかを全部ちゃんと考えていた、ということですね。
 この本そのものがイノベーティブであるというように前述しましたが、やはり来歴の通りというべきか、著者は様々なことについてきちんと「分析」をしています。なんとなくふわっと出した印象を元に話を作り上げているわけではない。例えば、第二章に出てくる「分野知図」など実に興味深い。

 著者のアタマの中がどのようになっているか類推させてくれるものが、そのような姿勢以外にもいくつかあります。
 例えば、第三章でイノベーションの仕組みについて述べる際に説明のために掲載している図、「イノベーション・ダイヤグラム」。p109にある二次元の図3-2だけでもまあいいのですが、後にそれが図3-3(p130)として三次元になって再登場します。
 何がいいたいのかというと、物事の構造をイメージするやり方がそれで見えてくるのですが、まあここで私見(いやここで書いているのは感想なので全部私見とも言えますが)を述べれば、こういう表現ができることは重要だと思います。元IT屋としては。

 とまあそんな印象を受けながら読んでたので、読みながらかなり色んなところに思考が飛びました。なので、ちょっと読んでは本を閉じてしばらく考えたりメモを取ったり。メモしてなかったことは結構忘れちゃいましたけど(笑)。
 その例を書いておくと、例えばp107の図3-1。「開発(演繹) - 科学」のところは何で×なのかな、とか。なんとなーくなんですけど、「夜の科学」で起きている「回遊」はそれを起こしていないのかな、ということですけど。
 まあ、その色々についてはその内まとめるかも知れません。まとめないかも知れませんが(笑)。

 結局この本で著者が出した結論と提言がどのようなものなのかというと、言葉にするとさほど珍しいものではありません。つまり、現代は「知」の時代なのだからそれは重要なのだし、ならば科学以外も含め様々な「知」が結び付くようにすべきであるし評価できる人も必要だということになります。
 ただ、むしろそこに至るまでの過程を辿ることはその結論を単に知ることと大きく違い、より重要なのだと思います。アメリカのSBIRと日本の「もどき」が別物であるのと同じように。
 こういう構造の本が人々に読まれることは、この本で示している提言の実現のための一つの力になるような気がします。前述の二重構造です。
 そういう意味でも、やはり興味深い存在だなと思います。

読んだ: 『小説 言の葉の庭』感想

 某所に、ラストがアニメ版と違うとあったので読んでみました。

小説 言の葉の庭 (角川文庫)
新海 誠
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 いやまあ、そもそも本作に関心があったのは劇場アニメ『君の名は。』を見たからなんですけど。
 で、読んでまず思ったのは、この『小説 言の葉の庭』はだいぶアニメ版よりも『君の名は。』に近いな、ということでした。

 勿論、『君の名は。』に雪野先生本人であるところのユキちゃん先生が出ているとか、本作の主人公の一人である孝雄がバイト先で客に絡まれてたりとか、挙げ句勅使河原とサヤちんなる人物が出てくるとか(笑)、そういうところもあるんですけど。
 でもここで言いたいのはそうではなく、ラストがあれに近い感じになっているということです。

 この小説版は第一〜十話及びエピローグからなり、各話ごとに視点が変っています。孝雄や雪野先生は何度も出てきますが、他にも周辺の人物、例えば孝雄の兄の翔太の視点からの話などもあったりします。
 そのようにそれぞれの人物が深く掘り下げられているわけですが、雪野先生の子供時代なんて、色々あったもののこれで言い尽くされている感じだったようです。

 愛媛での子供時代を通じて、雪野は周囲の誰よりも美しい存在であり、そしてその美しさは彼女をおおむね不幸にしていた。

 大人になり、後に孝雄が入学することになるあの学校に来たときに、やがてトラブルの元となる祥子が見抜いたところでは、「美しさを抑える」メイクで身を守る術を会得していたようですが。

 そんな風に二人、特に雪野先生のこれまでと今を掘り下げられたその上であのアニメ版の終り方だったら、これもう誰がどう見てもバッドエンドですよね(笑)。

 雪野先生の(一応)元カレである同僚で体育教師の伊藤は、その二人が互いを認識しているという意味で知り合う前から、何故か夢の中で二人を娶せています。いや勿論この表現はあまりにも飾りすぎていますが、彼は孝雄と雪野先生が持っている共通点に気付いています。脳筋体育教師のくせに! いやだからこその野性のカンかも知れませんけど。
 そんな二人が、まあアニメ版でも手紙のやり取りはしていたようですが、あのまるで訣別を象徴するような終り方をしていたら、もう雪野先生なんて孝雄が言う通り「ずっとひとりで、生きてく」しかなかったかも知れません。しかも彼女は運の悪い(?)ことに、孝雄と出会ってしまっています。「ひとりで生きてく」としても、それは「ずっと」と言えるようなものになったのか?

 つまり、伊藤が見抜いたような存在であるあの二人がダメなのなら、彼等にはもう希望の持てる関係なんてあり得ないとしか思えない。
 もしかすると、そのためにラストをあのようにせずにはいられなくなったのかも知れませんね(笑)。まあ想像ですけど。

 ところでこの伊藤という教師、私の印象では最も重要な人物、別の言い方をすると功労者であったのではないかと思います。
 彼が窮地に陥った雪野先生の手を取らなかったからこそ、彼女は孝雄との接点を持つことができたわけで。そして、その頃にはもう彼は離れています。
 まあそういう意味ではその窮地とやらは祥子のせいで……と遡れもしますが、伊藤の言では、「教師という仕事には、こういうことも最初から含まれている」ということなので、祥子がいなくともいずれはあのようなことになったとも言えます。

 さて、後はもうだいたいおまけ。
 伊藤の回想では雪野先生があの学校にやってきたとき、まだ髪が長かったんですね。「ミディアムロングの黒髪」と表現されています。ただ、その表現の最後にとんでもないものが登場しますけど(笑)。
 あと、祥子が雪野先生をハメたのって、実は百合だったんじゃないかなどと思ったりもしました。先輩ってのは比較的どうでもいい存在で、実は伊藤にいらついてたとか。けど、違いましたね。まあでも新海さんの場合、そういう方向ではあまり普通から踏み出さない気がするので、そうだったら違和感あったかも。

 それから、やはりコメントせざるを得ないのは、ほんと女性側が年上(もしくはそういう感じ)である関係好きですよねこの人(笑)。

読んだ: 『戦争が大嫌いな人のための 正しく学ぶ安保法制』感想簡易版

 簡易版と言っても詳細なのを書く予定もないですけど。

戦争が大嫌いな人のための 正しく学ぶ安保法制
小川 和久
アスペクト
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 実は『日本人が知らない集団的自衛権』も読んでたりしますが。

 この人の文章って、なんだかもどかしいんですよね。どうしてかというと、Q&A形式になっているのに答えていないことがあるから。
 多分、考え方が真っ当だからだと思うんですよね。でも、この手の問題って真っ当に考えて真っ当に答えても意味がないこと多いじゃないですか。

 例えば、これは『日本人が…』にもありましたし何度も答えているらしいのですが、集団的自衛権と集団安全保障の話。混同されていることを問題視しているのはわかるし、そもそも問い自体がおかしいというのもわかる。
 しかし、あと一歩、というか半歩踏み込めばいいのに、と思うんですよね。
 集団的自衛権は「権利」であり、集団安全保障は「体制」「仕組み」であるからそもそも次元が違う。わかりました、つまり「50Kg+30m=?」みたいな計算はできるわけないということですよね。
 ならば、集団的自衛権の発動としての行為と集団安全保障の体制に組み込まれたことで実行に移すことになる行為とはどう違うのか?
 上で「半歩」と言ったのは、ここで国連憲章等も登場して説明があるのに、もう一方が「もうわかるよね?」的になってしまうからです。

 あるいは、憲法9条(特に第2項)がそもそも前文やそこに語られている理念から掛け離れている、つまり違憲であるという指摘。
 これも、もう半歩欲しいんですよ。
 憲法が掲げる平和主義、国際協調。国連加盟、条文を否定していないこと。国連憲章が認める(集団的)自衛権。
 このように順を追って自衛権が認められることを提示し、よって9条がおかしいと結論づける。
 しかし、それは結論に辿り着いたとは言えません。何故なら、自衛権の行使に武力行使を含む可能性について論じていないからです。それを証明しない限り、9条が違憲であるという結論には至りません。

 いや、これは別に数学的な完全性を追求しているわけではなく、本当にそれを求める人がいるからなんですけどね。
 抵抗をしなければ攻めてきた相手も許してくれるというような、敵に武士道精神を期待する人とか。そもそも武力があるから攻めてくるんだというような、言霊信仰の親戚みたいなことを言う人とか。話せば分かるんだというような、(聖徳太子の)憲法みたいなことを言う人とか。
 いますよね。

 だからこの本は、『普通の人のための 正しく学ぶ安保法制』とは言えるかも知れませんが、「戦争が大嫌いな人」のための本と言えるかどうか、なんか微妙です。
 だから、もどかしいんですよね。

読んだ: 最近読んだ本 - 2016.5

 このタイトルだといつもは読んだ感想なんですけど、今回はちょっと違います。
 いや、感想は感想なんですけど、本の中身ではなくて。いや、中身は中身なんですけど、伝えている内容よりも伝え方について。
 紹介するのは次の二冊。基本的にはこれらを比較し、前者を賞賛し後者を批判するエントリとなります。

「表現の自由」の守り方 (星海社新書)
山田 太郎
講談社
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日本会議の研究 (扶桑社新書)
菅野 完
扶桑社 (2016-04-30)
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 でも、この『日本会議の研究』はあまり批判したくないんですよね。何故かというと、妙な誤解をされそうで。私は決してネトウヨではなく……あれ? そういえば私はいつもそれを自称してるじゃないですか。いかんいかん。わたしはネトウヨ……(加藤のマネ(笑))。

 ともあれそういうどうでもいい話はこのくらいにして本題。
 このブログでも「勝手広告」なんかやってるくらいだから、『「表現の自由」の守り方』の山田氏のことは高く評価しています。まあ、これを読んだからという部分もありますが。
 この本は基本的に、山田氏がこれまでどのような攻防を繰り広げてきたかということが書かれていると考えていいのですが、それだけでも参考になる面があります。それは何故かというと、何があってどうしてどのように対応したのかが書いてあるからです。
 つまり、極めて明確に「意味」「理由」が説明してあります。

 対する『日本会議の研究』は、伝えている内容はともあれ、どうにも文学青年の綴った夢物語みたいな印象を与える文章なんですよね。

 理由は比較的明確です。この菅野氏の文章は、いきなり何かを前提として話を始める部分がよくあるのです。みんなそう考えてるのが当たり前だよね?という姿勢で。誰が考えたのか知りませんが、帯の煽りからしてそうです。
 だから、いくつも続くそういう部分で一ヶ所でも考えの違うところがあると、そこでちょっとした反感が生まれてしまう。
 最初に比較と断っているのであからさまにやっちゃいますが、その点で山田氏が違うのは恐らく、明らかに当たり前と思われ勝ちなことをひっくりかえさないといけないからではないでしょうか。もしくはそれができるから実績があるのかも知れませんが。
 児ポは許せないよね? 青少年は健全に育成されるべきだよね? 有害な漫画があるのは良くないよね?
 このような、反論を許さない看板を掲げてやってくる相手の、実は子供の保護なんてどうでもいいように見える行動や嫌いなものを消し去りたいだけのように見える行動や相手を黙らせたいだけに見える行動を押し止める。それが彼のやろうとしていることなので。

 これは、『守り方』巻末で対談している漫画家の赤松健氏にも言えることですが、山田氏には真っ向からぶちあたって力業で物事を進めようとするのではなく、そうなるよう仕向ける道を探すような面があります。
 なんでもそうですが、力で押え付けたものには歪みが生じ、反発力を秘めているものです。だから押え続けなければいけない。
 この二人はそういうところがわかっているように感じます。
 だからなのか、二人のやることはなんだか「打ち負かした感」に欠けるところがあるようにも感じます。

 ところで、私は大概の政治家を「政争業」と考えています。特に野党がそうですが、国会などで派手にぶちかまし、結果はどうでもよくてとにかく足を引っ張ることしか考えていないようにしか思えない。テレビに出ても、相手を遮ってでもとにかく騒げば議論をしているように見えるとでも思っているのか。
 以前、某政治家のために運動をしている人に聞いたときには、とにかく相手を打ち負かさないと支持者が満足しないんだとか言われて開いた口が塞がりませんでした。

 さて、『研究』の菅野氏ですが。
 そもそも文体が、何となく煽り調なんですよね。ドキュメンタリー風ドラマの「語り」みたいな感じで。また、唐突にインタビュー相手との対話が挿入されたり、人物の印象が書き添えられていたり。
 だから、まあ研究はしたのかも知れませんが、その文章は研究報告というには雰囲気を盛り上げようとする演出が過多です。はっきり言うと、読むのが苦痛でした。
 ただ、そういうことを言うと、山田氏の本は文字の装飾(太字とか大きい文字とか)が過多な気もしますが(笑)。

 読む側について言えば、山田氏の文章は技術屋やなんかの理屈っぽい人や現実主義者に好まれそうだし、菅野氏の文章は理想に向かっての革命とかを夢見るような人に好まれそうな感じでしょうか。
 そして、私は後者のような人はあまり好きではないし、そもそもそのような人は、頑張ったという結果は残せても実績は皆無なんてことになりがちだし。

 というわけで、二冊の比較はこんな感じになりました。

読んだ: 『言ってはいけない 残酷すぎる真実』超簡単な感想

 まえがきの更に冒頭にあるように、「これは不愉快な本」です。

言ってはいけない 残酷すぎる真実 (新潮新書)
橘 玲
新潮社
売り上げランキング: 4

 しかし私が感じている不愉快さは、どうやら著者が言っているような意味のものとは違うように思います。
 まあ簡単に言ってしまうと、「こうであって欲しい」が「こうあるべき」に、そして「そうでなければいけない」「そうである筈だ」になってしまう、宗教のような空気のことですね。
 本書に述べられている例は多くが欧米のものなので、欧米の、特にアメリカの過去の事情によるタブーのようなものの非合理生性、不条理が上記のように物事を歪め、当然のように思えることを言えなくしているしまたそれによって本末転倒のことも発生している。

 ただ、それだけならここまで「不愉快」にはならないかも知れません。そういう文化的な負債や枷のようなものは、だいたいどこにでもあるからです。
 私が「不愉快」なのは、それが近年(ここ半世紀くらいでしょうか)、どんどん日本に無思慮に輸入されているからです。そして、タブーは論理和のように、許されることは論理積のようになっていく。以前も似たような表現をしましたが、こんな感じでしょうか。

「俺達は良くないことをした。反省している」
「そりゃいい心掛けだ」
「ついてはお前等も反省しろ」
「えっ」
「えっ」


 いつも、最近の日本では海外のものを無思慮に、しかも必ず改悪して導入すると批判というか非難していますが、この手もそのひとつです。しかも、ここ数年は特に酷いように思います。
 それがどのような層で蔓延っているかについても、非常に口にしづらいわけですね。
 まさに、著者が指摘しているように。
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水響俊二

Author:水響俊二
水響 俊二 [MIZUKI Shunji]

暫定的に、18禁作品の感想などは裏サイトで書いています。
   

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