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読んだ: 『イノベーションはなぜ途絶えたか』感想

 日本の経済を支える力について、絶望と希望と絶望に襲われる本ですね。


 いつも言っていることをちょっと違った言い回しで表現すれば、日本は頭から腐っているとでもいう感じになりますか。この本を読むと、本当にそうだなというのが実データを元にして突きつけられる気分です。
 しかし、このような分析ができる人がいるという、またこのような本が登場したという希望もあります。
 が、ここに書かれているようなことや姿勢が広く理解されることは多分ないだろうという暗澹たる気持ちもまたやってきます。

 この本にはまた内容の他にも興味深いことがあって、イノベーションについてここに書かれているような現状があってそれについてこのような対策を打てば……というレイヤーの上に二重構造のように、この本自体が一つの社会的なイノベーションであるという風にも感じられます。
 尤も、そのようであることそのものが現状に潜む問題点であるとも言えますけど。

 さて、序章に各章の概要とともに全体の構成が書いてありますが、私なりの解釈でちょっと別の表現をしてみることにします。
 その序章はまず問題提起で、現代の日本の状況と、それに対する危機感から著者がどんなことを始めたかという話。
 第一章は、シャープを例にとって日本の凋落がどのように進んだかを示しています。確かに、あの会社の歴史は日本の近代を体現しているかのようでもあります。
 第二章は、では一体どのようなところが悪いのかという話。アメリカで80年代初頭に始まったSBIR(スモール・ビジネス・イノベーション開発法)とSBIRプログラムがいかにアメリカのサイエンス型産業を変えたか、そしてそれをマネた日本の制度がいかに有害無益だったかを例に取ることで、つまり表面上同じような制度の筈なのにどうしてそんなに違うのかを比較することで、日本の社会に根を張る問題点をあぶり出します。
 第三章では、ではイノベーションとはどんなものでどのように生まれるものなのかということに視点が移りますが、ここでも上記のような二重構造が見えるような気がします。なぜイノベーションを起こせなくなっているのか、そしてなぜそのような状況になるのか。相似形の構造が見えるように思えるのは気のせいでしょうか。
 第四章では、一般論としてのイノベーションとな何かという話とは別に、特に現代の日本において強く影響している、固有の問題と言っても過言でないいわば追加で考慮しなければいけないことが書いてあります。つまり、現代社会では益々重要になってきている様々な技術が自然科学に依拠していること、然るに日本ではむしろそれがあまり顧られなくなってきていること。
 第五章にあるのは、著者による「対策」です。そして併せて、科学というものの役割、意味、認識、そういったものに対する、提案というには切望のようにも見える提言も。

 第二章に出てくるアメリカのSBIRは、さすがに一つの章に押し込めただけあって概要しか書いてありませんが、その出発点と効果を見るに、極めて緻密で周到な制度であるように思われます。現状(70年代当時)の分析、問題点の見極め、対策の網羅性。まあ平たく言うと、何が問題でどのようにすればどのようになって改善されるのかを全部ちゃんと考えていた、ということですね。
 この本そのものがイノベーティブであるというように前述しましたが、やはり来歴の通りというべきか、著者は様々なことについてきちんと「分析」をしています。なんとなくふわっと出した印象を元に話を作り上げているわけではない。例えば、第二章に出てくる「分野知図」など実に興味深い。

 著者のアタマの中がどのようになっているか類推させてくれるものが、そのような姿勢以外にもいくつかあります。
 例えば、第三章でイノベーションの仕組みについて述べる際に説明のために掲載している図、「イノベーション・ダイヤグラム」。p109にある二次元の図3-2だけでもまあいいのですが、後にそれが図3-3(p130)として三次元になって再登場します。
 何がいいたいのかというと、物事の構造をイメージするやり方がそれで見えてくるのですが、まあここで私見(いやここで書いているのは感想なので全部私見とも言えますが)を述べれば、こういう表現ができることは重要だと思います。元IT屋としては。

 とまあそんな印象を受けながら読んでたので、読みながらかなり色んなところに思考が飛びました。なので、ちょっと読んでは本を閉じてしばらく考えたりメモを取ったり。メモしてなかったことは結構忘れちゃいましたけど(笑)。
 その例を書いておくと、例えばp107の図3-1。「開発(演繹) - 科学」のところは何で×なのかな、とか。なんとなーくなんですけど、「夜の科学」で起きている「回遊」はそれを起こしていないのかな、ということですけど。
 まあ、その色々についてはその内まとめるかも知れません。まとめないかも知れませんが(笑)。

 結局この本で著者が出した結論と提言がどのようなものなのかというと、言葉にするとさほど珍しいものではありません。つまり、現代は「知」の時代なのだからそれは重要なのだし、ならば科学以外も含め様々な「知」が結び付くようにすべきであるし評価できる人も必要だということになります。
 ただ、むしろそこに至るまでの過程を辿ることはその結論を単に知ることと大きく違い、より重要なのだと思います。アメリカのSBIRと日本の「もどき」が別物であるのと同じように。
 こういう構造の本が人々に読まれることは、この本で示している提言の実現のための一つの力になるような気がします。前述の二重構造です。
 そういう意味でも、やはり興味深い存在だなと思います。

読んだ: 『小説 言の葉の庭』感想

 某所に、ラストがアニメ版と違うとあったので読んでみました。

小説 言の葉の庭 (角川文庫)
新海 誠
KADOKAWA/メディアファクトリー (2016-02-25)
売り上げランキング: 50

 いやまあ、そもそも本作に関心があったのは劇場アニメ『君の名は。』を見たからなんですけど。
 で、読んでまず思ったのは、この『小説 言の葉の庭』はだいぶアニメ版よりも『君の名は。』に近いな、ということでした。

 勿論、『君の名は。』に雪野先生本人であるところのユキちゃん先生が出ているとか、本作の主人公の一人である孝雄がバイト先で客に絡まれてたりとか、挙げ句勅使河原とサヤちんなる人物が出てくるとか(笑)、そういうところもあるんですけど。
 でもここで言いたいのはそうではなく、ラストがあれに近い感じになっているということです。

 この小説版は第一〜十話及びエピローグからなり、各話ごとに視点が変っています。孝雄や雪野先生は何度も出てきますが、他にも周辺の人物、例えば孝雄の兄の翔太の視点からの話などもあったりします。
 そのようにそれぞれの人物が深く掘り下げられているわけですが、雪野先生の子供時代なんて、色々あったもののこれで言い尽くされている感じだったようです。

 愛媛での子供時代を通じて、雪野は周囲の誰よりも美しい存在であり、そしてその美しさは彼女をおおむね不幸にしていた。

 大人になり、後に孝雄が入学することになるあの学校に来たときに、やがてトラブルの元となる祥子が見抜いたところでは、「美しさを抑える」メイクで身を守る術を会得していたようですが。

 そんな風に二人、特に雪野先生のこれまでと今を掘り下げられたその上であのアニメ版の終り方だったら、これもう誰がどう見てもバッドエンドですよね(笑)。

 雪野先生の(一応)元カレである同僚で体育教師の伊藤は、その二人が互いを認識しているという意味で知り合う前から、何故か夢の中で二人を娶せています。いや勿論この表現はあまりにも飾りすぎていますが、彼は孝雄と雪野先生が持っている共通点に気付いています。脳筋体育教師のくせに! いやだからこその野性のカンかも知れませんけど。
 そんな二人が、まあアニメ版でも手紙のやり取りはしていたようですが、あのまるで訣別を象徴するような終り方をしていたら、もう雪野先生なんて孝雄が言う通り「ずっとひとりで、生きてく」しかなかったかも知れません。しかも彼女は運の悪い(?)ことに、孝雄と出会ってしまっています。「ひとりで生きてく」としても、それは「ずっと」と言えるようなものになったのか?

 つまり、伊藤が見抜いたような存在であるあの二人がダメなのなら、彼等にはもう希望の持てる関係なんてあり得ないとしか思えない。
 もしかすると、そのためにラストをあのようにせずにはいられなくなったのかも知れませんね(笑)。まあ想像ですけど。

 ところでこの伊藤という教師、私の印象では最も重要な人物、別の言い方をすると功労者であったのではないかと思います。
 彼が窮地に陥った雪野先生の手を取らなかったからこそ、彼女は孝雄との接点を持つことができたわけで。そして、その頃にはもう彼は離れています。
 まあそういう意味ではその窮地とやらは祥子のせいで……と遡れもしますが、伊藤の言では、「教師という仕事には、こういうことも最初から含まれている」ということなので、祥子がいなくともいずれはあのようなことになったとも言えます。

 さて、後はもうだいたいおまけ。
 伊藤の回想では雪野先生があの学校にやってきたとき、まだ髪が長かったんですね。「ミディアムロングの黒髪」と表現されています。ただ、その表現の最後にとんでもないものが登場しますけど(笑)。
 あと、祥子が雪野先生をハメたのって、実は百合だったんじゃないかなどと思ったりもしました。先輩ってのは比較的どうでもいい存在で、実は伊藤にいらついてたとか。けど、違いましたね。まあでも新海さんの場合、そういう方向ではあまり普通から踏み出さない気がするので、そうだったら違和感あったかも。

 それから、やはりコメントせざるを得ないのは、ほんと女性側が年上(もしくはそういう感じ)である関係好きですよねこの人(笑)。

読んだ: 『戦争が大嫌いな人のための 正しく学ぶ安保法制』感想簡易版

 簡易版と言っても詳細なのを書く予定もないですけど。

戦争が大嫌いな人のための 正しく学ぶ安保法制
小川 和久
アスペクト
売り上げランキング: 2,711

 実は『日本人が知らない集団的自衛権』も読んでたりしますが。

 この人の文章って、なんだかもどかしいんですよね。どうしてかというと、Q&A形式になっているのに答えていないことがあるから。
 多分、考え方が真っ当だからだと思うんですよね。でも、この手の問題って真っ当に考えて真っ当に答えても意味がないこと多いじゃないですか。

 例えば、これは『日本人が…』にもありましたし何度も答えているらしいのですが、集団的自衛権と集団安全保障の話。混同されていることを問題視しているのはわかるし、そもそも問い自体がおかしいというのもわかる。
 しかし、あと一歩、というか半歩踏み込めばいいのに、と思うんですよね。
 集団的自衛権は「権利」であり、集団安全保障は「体制」「仕組み」であるからそもそも次元が違う。わかりました、つまり「50Kg+30m=?」みたいな計算はできるわけないということですよね。
 ならば、集団的自衛権の発動としての行為と集団安全保障の体制に組み込まれたことで実行に移すことになる行為とはどう違うのか?
 上で「半歩」と言ったのは、ここで国連憲章等も登場して説明があるのに、もう一方が「もうわかるよね?」的になってしまうからです。

 あるいは、憲法9条(特に第2項)がそもそも前文やそこに語られている理念から掛け離れている、つまり違憲であるという指摘。
 これも、もう半歩欲しいんですよ。
 憲法が掲げる平和主義、国際協調。国連加盟、条文を否定していないこと。国連憲章が認める(集団的)自衛権。
 このように順を追って自衛権が認められることを提示し、よって9条がおかしいと結論づける。
 しかし、それは結論に辿り着いたとは言えません。何故なら、自衛権の行使に武力行使を含む可能性について論じていないからです。それを証明しない限り、9条が違憲であるという結論には至りません。

 いや、これは別に数学的な完全性を追求しているわけではなく、本当にそれを求める人がいるからなんですけどね。
 抵抗をしなければ攻めてきた相手も許してくれるというような、敵に武士道精神を期待する人とか。そもそも武力があるから攻めてくるんだというような、言霊信仰の親戚みたいなことを言う人とか。話せば分かるんだというような、(聖徳太子の)憲法みたいなことを言う人とか。
 いますよね。

 だからこの本は、『普通の人のための 正しく学ぶ安保法制』とは言えるかも知れませんが、「戦争が大嫌いな人」のための本と言えるかどうか、なんか微妙です。
 だから、もどかしいんですよね。

読んだ: 最近読んだ本 - 2016.5

 このタイトルだといつもは読んだ感想なんですけど、今回はちょっと違います。
 いや、感想は感想なんですけど、本の中身ではなくて。いや、中身は中身なんですけど、伝えている内容よりも伝え方について。
 紹介するのは次の二冊。基本的にはこれらを比較し、前者を賞賛し後者を批判するエントリとなります。

「表現の自由」の守り方 (星海社新書)
山田 太郎
講談社
売り上げランキング: 15,469


日本会議の研究 (扶桑社新書)
菅野 完
扶桑社 (2016-04-30)
売り上げランキング: 112

 でも、この『日本会議の研究』はあまり批判したくないんですよね。何故かというと、妙な誤解をされそうで。私は決してネトウヨではなく……あれ? そういえば私はいつもそれを自称してるじゃないですか。いかんいかん。わたしはネトウヨ……(加藤のマネ(笑))。

 ともあれそういうどうでもいい話はこのくらいにして本題。
 このブログでも「勝手広告」なんかやってるくらいだから、『「表現の自由」の守り方』の山田氏のことは高く評価しています。まあ、これを読んだからという部分もありますが。
 この本は基本的に、山田氏がこれまでどのような攻防を繰り広げてきたかということが書かれていると考えていいのですが、それだけでも参考になる面があります。それは何故かというと、何があってどうしてどのように対応したのかが書いてあるからです。
 つまり、極めて明確に「意味」「理由」が説明してあります。

 対する『日本会議の研究』は、伝えている内容はともあれ、どうにも文学青年の綴った夢物語みたいな印象を与える文章なんですよね。

 理由は比較的明確です。この菅野氏の文章は、いきなり何かを前提として話を始める部分がよくあるのです。みんなそう考えてるのが当たり前だよね?という姿勢で。誰が考えたのか知りませんが、帯の煽りからしてそうです。
 だから、いくつも続くそういう部分で一ヶ所でも考えの違うところがあると、そこでちょっとした反感が生まれてしまう。
 最初に比較と断っているのであからさまにやっちゃいますが、その点で山田氏が違うのは恐らく、明らかに当たり前と思われ勝ちなことをひっくりかえさないといけないからではないでしょうか。もしくはそれができるから実績があるのかも知れませんが。
 児ポは許せないよね? 青少年は健全に育成されるべきだよね? 有害な漫画があるのは良くないよね?
 このような、反論を許さない看板を掲げてやってくる相手の、実は子供の保護なんてどうでもいいように見える行動や嫌いなものを消し去りたいだけのように見える行動や相手を黙らせたいだけに見える行動を押し止める。それが彼のやろうとしていることなので。

 これは、『守り方』巻末で対談している漫画家の赤松健氏にも言えることですが、山田氏には真っ向からぶちあたって力業で物事を進めようとするのではなく、そうなるよう仕向ける道を探すような面があります。
 なんでもそうですが、力で押え付けたものには歪みが生じ、反発力を秘めているものです。だから押え続けなければいけない。
 この二人はそういうところがわかっているように感じます。
 だからなのか、二人のやることはなんだか「打ち負かした感」に欠けるところがあるようにも感じます。

 ところで、私は大概の政治家を「政争業」と考えています。特に野党がそうですが、国会などで派手にぶちかまし、結果はどうでもよくてとにかく足を引っ張ることしか考えていないようにしか思えない。テレビに出ても、相手を遮ってでもとにかく騒げば議論をしているように見えるとでも思っているのか。
 以前、某政治家のために運動をしている人に聞いたときには、とにかく相手を打ち負かさないと支持者が満足しないんだとか言われて開いた口が塞がりませんでした。

 さて、『研究』の菅野氏ですが。
 そもそも文体が、何となく煽り調なんですよね。ドキュメンタリー風ドラマの「語り」みたいな感じで。また、唐突にインタビュー相手との対話が挿入されたり、人物の印象が書き添えられていたり。
 だから、まあ研究はしたのかも知れませんが、その文章は研究報告というには雰囲気を盛り上げようとする演出が過多です。はっきり言うと、読むのが苦痛でした。
 ただ、そういうことを言うと、山田氏の本は文字の装飾(太字とか大きい文字とか)が過多な気もしますが(笑)。

 読む側について言えば、山田氏の文章は技術屋やなんかの理屈っぽい人や現実主義者に好まれそうだし、菅野氏の文章は理想に向かっての革命とかを夢見るような人に好まれそうな感じでしょうか。
 そして、私は後者のような人はあまり好きではないし、そもそもそのような人は、頑張ったという結果は残せても実績は皆無なんてことになりがちだし。

 というわけで、二冊の比較はこんな感じになりました。

読んだ: 『言ってはいけない 残酷すぎる真実』超簡単な感想

 まえがきの更に冒頭にあるように、「これは不愉快な本」です。

言ってはいけない 残酷すぎる真実 (新潮新書)
橘 玲
新潮社
売り上げランキング: 4

 しかし私が感じている不愉快さは、どうやら著者が言っているような意味のものとは違うように思います。
 まあ簡単に言ってしまうと、「こうであって欲しい」が「こうあるべき」に、そして「そうでなければいけない」「そうである筈だ」になってしまう、宗教のような空気のことですね。
 本書に述べられている例は多くが欧米のものなので、欧米の、特にアメリカの過去の事情によるタブーのようなものの非合理生性、不条理が上記のように物事を歪め、当然のように思えることを言えなくしているしまたそれによって本末転倒のことも発生している。

 ただ、それだけならここまで「不愉快」にはならないかも知れません。そういう文化的な負債や枷のようなものは、だいたいどこにでもあるからです。
 私が「不愉快」なのは、それが近年(ここ半世紀くらいでしょうか)、どんどん日本に無思慮に輸入されているからです。そして、タブーは論理和のように、許されることは論理積のようになっていく。以前も似たような表現をしましたが、こんな感じでしょうか。

「俺達は良くないことをした。反省している」
「そりゃいい心掛けだ」
「ついてはお前等も反省しろ」
「えっ」
「えっ」


 いつも、最近の日本では海外のものを無思慮に、しかも必ず改悪して導入すると批判というか非難していますが、この手もそのひとつです。しかも、ここ数年は特に酷いように思います。
 それがどのような層で蔓延っているかについても、非常に口にしづらいわけですね。
 まさに、著者が指摘しているように。

読んだ: 最近読んだ本 - 2016.2

 まあ色々読んでますが、いつもなら感想書いているようなのについても最近あまりやってないので、取り敢えずそういう本についてのまとめです。

○ 『なれる!SE 14』
なれる!SE (14) 世にも奇妙な?ビジネスアライアンス (電撃文庫)
夏海公司
KADOKAWA/アスキー・メディアワークス (2016-01-09)
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 太郎丸とか次郎丸とか五郎丸とか、最近似たような名前が目に飛込んでくることが多いなぁ(笑)。

 にしても、相変わらずこの次郎丸さんいいキャラですね。でも、工兵はこれと渡り合った上に挫折を味わわせたわけで、もう超人としか?
 あと、立華先輩が女性の敵であること判明(笑)。
 でも、意外とこういうこと多いような気もします。いやダイエットとか体質とかの話ではなく、実は意味のないことを言ってるけどやってない場合の検証ができないので、とか。

○ 『最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。 10』
最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。(10) (ドラゴンコミックスエイジ)
松沢 まり
KADOKAWA/富士見書房 (2016-01-09)
売り上げランキング: 4,056

 あとがきの言葉を借りれば、「美月たちの物語もラストスバートに入りました」。
 ポイントは、「美月たち」のというところでしょうか。まあ、メインヒロインだからその名前が出てくるのは必然と言えますが。
 それにしてもあのTST、美月が「自分ではいたっ。」ものだったということですが、不信感で身を護るのによりによってあの場所限定で保護する形態になるとか、実は美月って……(笑)。まあ、デザインというのがどの辺りまでを示すかにもよりますけど。

 どうでもいいことですがこの本、実は二冊持ってます。尼さんから届いたのが今時珍しい乱丁、というのかな、折れてて変な風に切れているという代物で。
 交換とかも面倒だし、買えば印税になるし(笑)。

○ 『非道とグローバリズム』
非道とグローバリズム 新聞とテレビが絶対に言えない「宗教」と「戦争」の真実
中田 考 和田 秀樹
ブックマン社 (2016-01-29)
売り上げランキング: 28,325

 明確にイスラムの側にいる人が言うことなので偏りはあるかも知れないけど逆に正確であるとも言えますが、話を聞いて(いや読んで)いると、明らかに、少なくともキリスト教よりはイスラム教の方がマトモですよね。合理的。
 まあ、だからと言って自分も同じように思うかというとそれはちょっと違いますが。
 キリスト教ってどうもその成り立ちからして「恨の文化」(あれ?どっかで聞いたような(笑))というところがあるので。だからなのか、綺麗事と被害者ビジネスが盛んですからね。しかも押し付けがましいし。

 それにしても、保守政党がグローバリズム礼賛で日本文化抹消主義(ただし西洋が認めたもの除く)って一体どういう冗談?

○ 『はてな☆イリュージョン 4』
はてなイリュージョン4 (ダッシュエックス文庫)
松 智洋
集英社 (2015-11-25)
売り上げランキング: 191,985

 物語、というかストーリーとは関係ないことですが、こういうのっていいなと思います。登場人物いい人ばかりで、ふわっとしてちょっとえっちで。以前のシリーズもそうですが、この人の作品ってそういうところありますよね。

 もう結構前になりますが、IT系と二次元、もしくは萌え文化の相性について抽象化の受容性とかに主眼を置いて書いたことがあります。しかし、今回ちょっと違う理由を感じました。
 個人的なことですが実は、まずは毎年そうなのですが年末から年始にかけては仕事柄数字に埋もれることになりますし、今年は特に、制度の変更や新しい制度の導入があったりとか、公私ともにIT系のトラブルが頻発したりとか、更には変なシステムの構築を始めてしまったり(笑)とかと、極めて無機質な環境に身を置くことになりました。
 思えばIT業界にいた頃はずっとそうだったのかも知れませんが、当時の職場はあまりまともでなかったですからね。まともでないというのは、ちゃんとした堅苦しいオフィスでないという意味ですが(笑)。
 こういうとき、二次元、特に本作のようなふわっとした感じの世界というのは実に肌に合う感じがします。「えっち」でも、リアルは情報が多すぎてキツい感じ。

 でも、イラストに乳首とか描いちゃってるんだけどいいの……?
 まあ、BDで湯気や光が取れるのと同じかな(笑)。

読んだ: 『OTAKUエリート』感想

 この手の本はいくつか読みましたが、これはかなり読みごたえがあります。


 勿論、新書本なんで分量は大したことないんですが、内容がという意味で。とても重要な点を突いていると思います。
 これまでここでレビューしたりした中では、三原龍太郎氏なんかはどうも型に填ってるというか分析の視点に目新しさがない気がするし、故・櫻井孝昌氏はどちらかというと実務家・活動家だったし、中村伊知哉辺りは実は著作があるかどうかすら知りませんが勝手に騒いでろいややっぱりやめろ邪魔だからという感じだし。ややジャンルのずれた番外として佐々木俊尚氏なんかは読んでるとどんどん突っ込みを入れたくなってくる感じだったし。
 まあ、もしかすると感性の問題かも知れません。いかにも理系らしく、この人は言葉に惑わされないところがあるようです。

 理系一般やIT系の特徴として、まず言葉の定義から入りたがるようなところがあると思います。実は前者についてはここでは自明で、何故なら私は、そういうところを理系の人と見る必要条件としているからです(笑)。
 本書でも、「はじめに」の冒頭で既に「「ドラえもんがアジアで人気だ」といった話とは全く違っている」というような表現を、また提言や警告も含めたまとめとも言える第5章で「混ぜるな危険」というような表現を用いているように、言葉や呼称と実体や実態のずれを常に意識しているように思います。
 いや、意識はしていないかも知れません。多分、それを指摘することは当たり前のごく普通の行為なのでしょう。
 実際、例えばIT系の比喩を用いるならば、こういう話題が出るときのTCPとMP4を並べて語るような珍妙な文脈の多さに私も違和感を覚えていました。

 この本の副題には「アキバカルチャーが……」とありますが、これも注意が必要です。文脈からするとここで言っているのは文中で言う「グローバル・アキバカルチャー」であり、それは成り立ちからして違い、従って主導権がどの辺りにあるかも異るものであるからです。
 同じように、タイトルの「OTAKU」も「オタク」とは違うものでしょう。

 ちなみにこの本、構成もわかり易いですね。氏の経験を題材にした発端から時代を追って様々な「グローバル・アキバカルチャー」的なものの成立を例示し、それが極まった第4章からまとめに入る第5章「アキバカルチャーのターン」では一気に文体まで変り、それまでの章で示され、峻別された概念をベースに警告を含めた提言とまとめが示されます。
 文章の構成の仕方も理系っぽい(笑)?

 さて、その第4章までの様々な事例の紹介もそれだけで面白いのですが、そこで共通して示されているのが、というかそれを示すために適切な事例を選んで並べたのでしょうが、本書で「グローバル・アキバカルチャー」と命名されているものと、日本でオタク的な文化を語る文脈で出てくる「アキバカルチャー」の違いです。
 勿論、それが同じ「アキバ」を冠するのには理由があり、その受け皿である感覚・感性に大量のネタを投入してきたのが日本の文化であることは確かです。
 では何が違うのか。それは、まずコンテンツがありそこから発展した国内のものと、ネット(インターネット以前から)を出発点とするサイバーカルチャーベースの海外のもの、というところに至ると思います。
 これも「らしい」と言えるのですが、その構造については第1章冒頭(p.30)付近に既に図入りで説明されています。

 そういう意味では、この「グローバル・アキバカルチャー」ではややもすると所謂ウインブルドン現象のようなことが起きる可能性もあると言えますね。そこで日本的なものが流行していることは、必ずしも日本の存在が必須であることを意味しませんから。
 実際文中でも、このような指摘があります。

 こうしてアキバカルチャーが言語や現実の壁を越えて世界で共有されるようになる一方、その発信元として認知されてきた「日本」という存在が徐々に霞み始めている。(略)
 少し前までは、ネタが「日本発」であることがアキバカルチャーの必須条件だったが、今やネタとなる部分が日本製かそうでないかは、もはやどうでもよくなっている。

(p.119)

 これは、氏の言う「グローバル・アキバカルチャー」の成り立ち、即ちサイバーカルチャーが「アキバカルチャー」をネタにして発展してきたという来歴からするとそうおかしな話ではありません。

 以前、「『クール・ジャパンはなぜ嫌われるのか』感想」という感想を書きました。そこで書いたことは我ながら詰めが甘いというかまとめ切れていないというか、ちょっともやもやしたところがあります。
 多分、そこで感じたことを突き詰めていくと、先日のエントリ「目指せ!縦割り社会」じゃないですが羽生氏の言う「混ぜるな危険」とか、或いは同じ第5章にある「萎縮」「オトナの介入」などといったキーワードに辿り着くのではないかと思います。そういえば先日(2016-01-15)放送されたラピュタの『バルス祭り』なんていう例が思い起こされますね。

 まとめ部分には、所謂グローバル人材(笑)への警告めいたことも書かれています。まず前提として「世界を相手にできるだけの教養」が必要であり「その基本が自国文化に関する知識と理解である」とさらっと重要でありつつ疎かにされがちな常識が書かれていますが、本書の文脈だと、ビジネス等で関係を持たなければいけない相手にOTAKUが登場することになるわけで(笑)。
 そして、そんな真面目でありつつ笑い話のような想定に、我々が世界から何を求められているのか、我々はどうあるべきなのかという提言が続きます。

 それは、至極真っ当でありつつ、しかもオタクだなんだと関係なく一般に言えることでありつつ、しかし実際には昨今の社会情勢を見るに困難を伴うと思われることです。
 あえてそうしているのかそんな意図はないのか、それはわかりませんが、わざわざそんな当たり前のことを書いて終わるというところに、遠回しに何かを伝えているようにも思えますが、さて。

読んだ: 『ビッグデータ・コネクト』感想

 昨日(2015-05-05)の読売新聞朝刊で紹介されていたのを見て、面白そうなので買ってみました。

ビッグデータ・コネクト (文春文庫)
藤井 太洋
文藝春秋 (2015-04-10)
売り上げランキング: 985

[追記: 2015-05-08]
 書き忘れました。文脈からわかるかと思いますが、これは小説です。
 予言書ではありません(笑)。多分。
[追記終わり]
 舞台は2019年の日本。近未来ですね。滋賀県の大津市が行政サービスを民間に委託する<コンポジタ>というシステムを作っているんですが、その開発に当たっている下請会社の月岡という人が誘拐されたところから。
 そこで何だか色々あって呼ばれたのが、京都府警サイバー犯罪対策課の万田です。
 彼は二年前、何者かが他人のパソコンを遠隔操作するウイルスを作成して人を陥れた事件に関わっており、容疑者の武岱なる人物を長期間勾留しつつも結局起訴できなかったという過去があります。今回これまた色々あって万田達はその武岱に捜査の協力を依頼することになるのですが、別に必ずしも実力を買ってというわけでもなく、犯人もしくはその関係者である可能性も考慮に入れて、という判断。

 そして、武岱が驚異的な能力を見せ付け事件の真相がどんどん明らかになっていく……。

 のですが、ここで感想を述べると、はっきり言ってその事件は比較的どうでもいい感じです。
 結局のところこの物語、警察対IT関係者、という構図ですね。万田を含むサイバー犯罪対策課は、その中間的な立ち位置という感じ。捜査を妨害するのは警察だし、「誘拐」され後に殺された月岡は、そしてそれに肩入れすることになった武岱も、結局は警察OBで大津市長である半田を相手取って戦ったわけですし。
 更に言えば、相手は警察組織そのものと言ってもいい。その象徴が、万田や武岱の捜査に引っ付いてきて、状況の解説を促す役も担った綿貫であると思います。状況の解説を促すというのはつまり、ITに無知な人物がいないと細かいことを全く説明せずに話が展開してしまうという意味ですが、同時にその蒙昧さで見当違いなことばかり考えています。

 その綿貫も、途中からは、つまり<コンポジタ>の事件の真相に迫ろうという頃には御役御免になりましたが。本物の敵が見えてきましたからね。

 ところで本作、何だか登場人物がわかりづらいですね。特に警察の人物、登場のときに説明が少ない感じで。
 そんな風に振り返ってみてはたと気づいたんですが、女性が武岱の弁護士の赤瀬一人だけじゃないですか。

 さて、この作品、何と言うか色々モデルが具体的に浮かびすぎます(笑)ね。
 企業だったり法律だったり慣行だったり事件だったりシステムだったり。「電話会社グループの<データ・システムズ>」って、<データ>って略したら全然架空に見えないよ(笑)。
 武岱が逮捕され勾留された事件は勿論例の所謂PC遠隔操作事件だろうし。大津市長の半田や<TAC>カードも色々と連想させますし。ちなみに、「二〇一三年にオープンした佐賀県のカフェ付き図書館」というのもちらっと出てきます。
 そういえばちょっと話は逸れますが、これ文春文庫なのに、もしくは文春文庫だからなのか、週刊文春のポカみたいなのも出てきましたっけ。

 法律については、「名称と実体のかけ離れたIT系の法律」という言葉が出てきますが(p197)、ほんとそうですよね。法の目的とか理念とか法益とか、結局どこ行っちゃったの?みたいなのが多すぎて。

 また、業界の慣行や勤務状況、作ったばかりのシステムなのになんか古いじゃん?みたいなところ、文字コードのあれこれなんかの技術的なことも。文字コードに関しては、たまたまつい最近IVSをいじったりしたので印象的でした。

 そして、作品タイトルにもなっているビッグデータ。
 ビッグデータに関しては、以前さらっと述べたことがあり、その後も触れたことがあります。個人的にはビッグデータ解析は、名寄せのようなものだと思っています。ただ、名寄せは求める対象がはっきりしている(「人」)のに対し、ビッグデータ解析は、何が出てくるかを知ること自体が目的でもあると。
 それで今回、まさに「名寄せ」に使われたわけです。

 が、そこではたと思い当たりました。考えてみると、そもそもビッグデータという概念が誕生したのはトラッキングの世界だったんでは?
 となると、この<コンポジタ>は本来的な意味でのビッグデータの利用法ということになりますかね。

 それにしても、武岱が仕掛けた最後の罠。
 あのシステムの穴、あまりにもばからしすぎて逆にとてつもないリアルさですね。物凄く「ありそう」。その絶妙な点を突いたところは見事でした。
 でも、同じリアルでもやはり、ラノベである某シリーズとはだいぶ違いますね。強いて言うと7巻的な?

tag : 文春文庫 藤井太洋

読んだ: 『「タレント」の時代』の感想というか妄想

 こんな本を読みました。


 読み終えたのは先週なのですが、今週は色んな意味でとても大変だったので……。
 あと、読みながら思ったことのメモとか取ってなかったので、ちょっと曖昧になるかも。例えば、書いてあったこと結構忘れてるとか。

 ともあれ、まず概観を述べると、だいぶ興味深い内容です。ただ、トヨタ上げがちょっとうざいですね。まあ、確かにトヨタはミクロな視点から見れば成功している企業なので、ミクロな立場からは参考になるでしょう。

 さて、サブタイトルからもわかる通り、この本で言う「タレント」とは別に芸能人のことではなく、まあ一言で表現すると、価値を生み出せる人ということです。
 ただ、ではどこが普通の人と違うのかというと、そこはあまり明確に表現されていません。「わかる人にはわかる」し、抜群に優れた人という表現も出てきます。
 その辺りが少し気になるのですが、私も別に「わかる人」ではないので、その気になるところについて妄想してみることにします。

 まず、この本で言う、或いはタレントマネジメントなどと言うときの「タレント」とは、普通の意味で優れている人の延長にある概念ではないのだと思います。それは、定量的な意味での思考能力を延長した先を指すものではないでしょう。
 そこには、もう一つ別の基準が必要です。

 それは、まあ様々な表現の仕方があるでしょうが、その中からやや恣意的に一つを選んで、抽象化ができる人、ということにしたいと思います。そして更に、後でもう一つ加えます。

 例えばここに、まあ典型的なものでかまわないのですが、りんごの実があるとします。
 それは、赤い。抽象化ですが、単なる単純化でもあります。私が想定しているのは複数の物差しを使ってそれができることです。
 色は赤い。味は甘い。……種の維持機能を担うものである。生態系の中では食物としても役立っている。

 それは、物事の仕組みを知ろうとする姿勢であり、何かを見たときその理由を知ろうとすることでもあり、構造や動きを理解しようとすることでもあります。
 新しいものは得てして、組合わせや転用から誕生します。何かを機能に分解してつながりを発見したり、その構造を別のものの中に構築してみたり。
 ものとは、所謂「物」だけでなく、知識や情報の関係、位置づけ、自分にとっての意味、人の関係、社会の構造、そういった全てです。

 そしてもう一つ加えると、抽象化したら今度は具体化できる人。仕組みを考え、それを現実化することです。

 つまり、帰納して演繹する、とでも言い換えられるかも知れません。

 知識の量や知っている人の数、そういった定量的なことの他に、つまりは定性的な別の能力を持っている人が私の想像する「タレント」であり、これまでになかった価値を生み出せる人であると思います。
 定性的な能力の量という、何だか字面の表現上は奇妙な話になっていますが。

 冒頭ちょっと述べた感想は、別の言い方をすると、この本の著者の酒井氏自身はまだそこのところがちょっと足りないか、もしくはそれを表現するやり方が今一つなのか、はたまた?

 ともあれ、常々思っているしここのブログでもよく触れていることではありますが、日本の中枢からはそういう能力が見事に欠けているように思います。この本で挙げているよろしくない方の企業とそっくりなものがそこかしこに見られるから。
 中枢というのは、何も政府に限ったことではありません。例えば、情報の流れの中枢である報道など。その証拠に、所謂マスメディアに登場するIT(抽象化の塊)の記事の誤りの多いこと。あれは、知識の欠落だけでは起り得ないものなのではないでしょうか。
 ITと言えば、これはこの間も言いましたが、日本においてITの足を引っ張っている物を見ると、日本の弱点のかなりの部分を知ることができるように思います。

 というようなことを書いておいて、実は本の内容を読み切れず頓珍漢な指摘になっている可能性もあるのですが、最初に述べたように、私は別に「わかる人」、つまり「タレント」ではないので、まあ仕方ないことですね(笑)。

tag : 講談社現代新書 酒井崇男

読んだ: 『性の進化論』感想

 こんな本を読みました。

性の進化論――女性のオルガスムは、なぜ霊長類にだけ発達したか?
クリストファー・ライアン カシルダ・ジェタ
作品社
売り上げランキング: 19,101

 かなり興味深い本です。ただ、文章にちょっとクセがあって読みづらいですけど。訳のことではなく、文章の構成が。

 なんというか、なるほど、と思わされる指摘が多いです。例えば、伝統的な一対一の男女関係が普遍的であるのであれば、浮気や不倫が絶えないのは何故か? そもそも人はそういうことをするものなのではないか?
 そういった指摘が、常に客観的な事実に基づき、思想に囚われず数多くなされています。驚くべきは、それが女性の性に対しても行われていることです。これはもしかすると、著者の一人が女性でなければ発表できなかったかもしれませんね。

 実際、参照している各種の研究を素直に解釈すると、伝統的な価値観というのが非常に無理のある考え方に見えてきます。勿論、その反対の結果が得られた研究があったりそもそもその研究に嘘があったりしたら?というのはありますが。

 ここでいう常識的、普遍的な価値観というのは、著者があちらの人であるためでしょうか、やはり西洋のキリスト教的なもので、その教えが指し示す「あるべき姿」です。そして、そのようであるよりも、人が元々そうだったらしい姿の方が、現実の人に合っているように感じられます。
 なおかつ、西洋的な考え方に晒されていない社会には、つまりキリスト教的なあるべき姿と掛け離れた社会には、西洋よりもうまく行っているケースが多々あるようです。だから、西洋的な理想が本当に「あるべき姿」であるのかも疑問です。
 そういう意味で、この本は一つの「解」を示していると言えます。そして、常識的な考え方よりも「正解」らしい。

 彼等が目を付けた事実、それは、多くは実際に人間の身体などに特徴として現れているものです。睾丸の大きさ(p332)、射精の化学(p340)、ペニスの形(p351)、セックスの仕方(p352)、そして農耕以前の社会の研究(第III部)。
 それらが指し示すのは、人間の「性」は、当然と思われているような一夫一婦制が自然であるとは言えない、ということです。そしてそれは、一夫多妻が自然であるということでもありません。多対多の組み合わせこそが、自然であり理に適っているというのが、この本で示された「解」です。
 女性(雌)をめぐる争いは、人間の場合、個体が行なうのではなく、女性の胎内で行なわれているのだ、というわけです(p397)。

 例えば、このような逸話が紹介されています。これは、イエズス会の宣教師が、不貞がはびこっていることの恐ろしさを、古くはモンタニェ・インディアンと呼ばれたカナダの先住民の男性に説いたときのことです。

その回想にこうある。「私は彼に言いました。女が自分の夫以外の男を愛するのは、それが誰であれ立派な行ないとは言えない、そんな悪行がはびこっているから、夫はそこに自分の息子がいても、それが自分の息子であるという確信が持てないのだと。すると彼は、こう答えたのです。『それは間違っています。あなた方フランス人は、自分の子どもしか愛さないかもしれないが、われわれはこの部族[トライブ]のすべての子どもたちを愛している』と」。

(p158)

 一理ありますし、西洋の社会がこの問題の回避のためにわざわざ社会的な仕組みを構築しているのは、実に遠回りに見えてきます。漁師に声をかけた旅行者の寓話のように。
 また、日本も昔はこれに近い社会だったのではないでしょうか。

 さて、この本で引用されている研究はそうしたことに止まらず、例えば性的指向に関する男女差のようなものにも及んでいます。
 例えば、女性の性愛の可塑性(つまり変化しやすさ)は男性に比べて高い(p408)。そのことについては、エロティシズムを感じさせる映像を見たときに感じたことについての自己申告とその際の身体に現れた変化との比較を調査した結果なども引用されています。
 ここから一つには、女性の場合、実際に身体がどう反応しているかとは別に、観念が違う答えを出させることがあることが推測されます。これは、西洋の女性が伝統的な「あるべき(とされる)姿」を体現していることの理由でもあるかもしれません。

 しかし、それよりも興味深いのは、男性の場合です。男性のエロティシズムは、一旦刷り込まれてしまうと生涯変らないことが多いというのです(p419)。

 ここから少し思ったことがあります。
 西洋の場合、「罪」との関連性を強く意識させるため、性と犯罪が結び付きやすいのではないか。このことは、こういった報告にも結び付いているように思えます。

「身体的な快楽が奪われていること──人生のどの時期においてもそうであるが、とりわけ幼児期、児童、思春期それぞれの形成期に身体的快楽を禁じられること──は、戦争や個人間の暴力の量に密接な関連性があった」という。母親と子どもとの間の身体的な絆を妨げない文化、思春期のセクシュアリティの表現を禁じない文化は、暴力が、個人間においても、社会間においても、はるかに低い水準にとどまっているらしい。

(p426)

 性に関して言えば、こういう本があります。
裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心 (新潮選書)
中野 明
新潮社
売り上げランキング: 429,330
 隠し、秘すことが結局淫靡さを演出し、奇妙な引力を生み出しているというわけです。

 一方日本の場合、罪というよりも「不健全」とされることが多いようですが、そのことが性に結び付けるものは、感覚的には、清潔さや純粋さなどにであるように思えます。
 それで思い出したのが、こういう本です。
セックス嫌いな若者たち (メディアファクトリー新書)
北村邦夫
メディアファクトリー
売り上げランキング: 153,466
 ここで紹介されている理由は、必ずしも潔癖さだけではありませんが。

 そんなわけで、今回紹介した『性の進化論』の全体的な印象を述べてしまえば、要するにどれも西洋、というよりもキリスト教の弊害ってことじゃないの?ということになってしまいます。西洋人の、病気で熱が出たら水に浸って冷やせばいいじゃない、みたいなところです。それと、理想主義みたいなところですね。まあ、その元となったユダヤ教がどうなのかは知りませんし、同系統のイスラム教などは半歩くらいそこから離れているようですが。
 聖人だけが住む世界を地獄と呼んだのは誰だったか忘れましたが、現代の、西洋の影響を強く受けた社会は、聖人だけが求められるために誰もが弾き出されてしまったような所が多いように思えます。また、グローバル化と称して何でも無思慮に混ぜようとするのも、これも西洋の思想というか理想のように感じられますが、結局そのような社会の規範は(最大?)公約数、もしくは私のなじんだ世界の言葉で表現すれば論理積にならざるを得ず、どんどん窮屈になっていかざるを得ません。
 そういうことが、不安定さ、生きづらさ、息苦しさ、そういったものを醸し出しているのではないでしょうか。

 性の問題に限らず、理想的、言ってしまえば綺麗事が生み出すのが、こういう話なのかも知れません。
漂白される社会
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 結局、人はまだ西洋的な人の想定した普遍的で理想的な在り方へ「進化」していないわけですが、そもそもそれは、進化の方向として正しいのか。
 西洋、特にキリスト教的社会が招いている他の文化圏との衝突を見ていると、そのような疑問を抱かずにはいられません。
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Author:水響俊二
水響 俊二 [MIZUKI Shunji]

暫定的に、18禁作品の感想などは裏サイトで書いています。
 

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